心学明誠舎

SHINGAKUMEISEISHA
○ 「市民思想」の始まり…石田梅岩の思想は日本における「市民思想」の始まりであると言われています。そして、その世界観は、無意識の内に日本人の世界観の基となってきました。経済至上主義の吹き荒れる今、再び我々の手に取り戻すべき思想です。○ 町人が生んだ思想…1685年、京都・亀岡の農家に生まれた梅岩は、京都の呉服商で番頭にまで上りつめました。その間、儒・仏・道・神道など学問修行に励み、ついに悟りを開き、45歳から京都で講釈を始めました。梅岩は60歳で亡くなりましたが、門人たちによる心学講舎は全国に広がり、大きな影響を与えました。○ 性に従う…梅岩の思想は、実践的な思想ですが、その核心は-宇宙万物が等しく持つ「自然的秩序」を人間も持っている。人は人の形に基づく人の心(性・本心)を持っており、欲心に惑わされず、本心に従うことが人の道であり、商人の道である-ということです。「万事、物の法に随う」とも表現しています。○ 現代に持つ意味…梅岩は「勤勉」「正直」「倹約」、また、「先も立ち、我も立つ」商いを説きましたが、企業の社会的責任・社会との共生・環境保護などの観点から現代的な意味を持っています。○ 「勤勉」…梅岩は、人は労働によって食を得る形に生まれており、その心を持っているので、身を苦労し努めれば「心は安楽になる」と説きます。何のために働くのかが問われる今、味わうべき言葉です。○ 「正直」「先も立ち、我も立つ」…梅岩は、「此正直が行われれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし」と言います。また、「まことの商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」と言っています。日本で最初にCSR(企業の社会的責任)を唱えたと言えます。○ 「倹約」…梅岩の倹約は金を貯めるためではありません。「物の効用を尽くす」ことです。「世界に三つ要る物を二つにてすむようにするを倹約と言う」と言っています。今、最も必要とされている省資源、環境保全につながる考え方です。○ 社会的役割の自覚…「士農工商」はその職分において平等であること、また道徳も身分や職分で変わりがないこと、商いの利益は武士の俸禄と同じで正当なものであることなどを、厳しい幕府政治の中、危険を顧みず主張したことは、商人の社会的な役割の自覚・自信につながりました。この他にも、梅岩の教えには、世界的な視点から価値あるものが多くあります。また、弟子たちには優れた人たちが多く、手島堵庵・中沢道二・柴田鳩翁などが活躍しました。鎌田柳泓は日本の科学史・哲学史上からもユニークな人です。

心学の人々

石田梅岩(1685~1745年)
はじめに石田梅岩の実践と残した教えについて確認しておきたい。

(1)江戸中期の時代背景
江戸中期には幕府や諸藩の財政は逼迫し、商人からの借入金が膨らみ、徳政令や貨幣の改悪など小手先の対策に追われた。また、大火、飢饉、米価の乱高下、疫病等が頻発し、社会不安が蔓延する状況となった。一方で米の買占めなど投機に走る商人もあり、一揆や打ちこわしも数多く発生した。元禄期前後には社会全体がバブル期にあり華美や奢侈が流行し、商業者の一部には放蕩三昧にふけるものも現れた。

この時代の学問といえば、儒学、朱子学であり、儒者が幕府や社会全体に大きな影響力を有した。梅岩が二度目に京都へ出た頃、伊藤仁斎は既に没し、息子の伊藤東涯や、浅見絅斎などがいた。江戸では、荻生徂徠が大老柳沢吉保に儒者として仕えていた。

神道は各種の派があり、吉田兼倶提唱による老荘思想や仏教の影響を強く受けた吉田神道があり、増穂残口(1655~1742)は京の町々で通俗的神道講釈を行っていた。また儒家より神儒一致を説いた中江藤樹や雨森芳洲などが出た。

仏教については、信長が苦しめられた僧兵の影響やキリシタン禁圧のための宗門改め制度により全ての民が仏教徒となったが、宗教的な力は弱められた。

(2)梅岩の略歴~神道を志すまで~
梅岩は1685年、丹波(現亀岡市)の中農の家に生まれた(興長、号を梅岩、通称勘平)。生家から北東すぐに八幡神社、その東に禅宗の春現寺、更に東に氏神の春日神社がある。梅岩は幼少の頃から、神官や禅僧より思想形成上で大きな影響を受けたであろう。10歳頃に京都の商家に奉公に出るが、勤め先の経営状態が悪化し4年ほどで帰郷し、農業に従事。21~22歳頃、再び上京し呉服商黒柳家に奉公する。このとき既に、神道を学び神道を広めたい、「若し聞く人なくば、鈴を振り町々を巡りてなりとも、人に人たる道を勧めたい」との高い志を有していた。そのため早朝、深夜、昼間の奉公の合間にも書を読んだ。同輩からその志を問われ「学問し古の聖賢の行いを見聞きし、あまねく人の手本になるべし」と答えている。

奉公先主人の母は熱心な本願寺門徒で、奉公人にも参詣をさせたが「勘平が神道を学べるはその志格別なり。御堂へまいらずとても信心あり」と、梅岩には特別の配慮があった。

(3)開悟体験~「性」を知る~
梅岩30代の中頃に「性」を知ったと思っていたがその性に疑いが起こり、師を求めたが叶わなかった。梅岩哲学の中心「性を知る」は儒教からきている。

『孟子』には、「自分の持っている本心(側隠・差悪・辞譲・是非の四端の心)を十分に発展させた人は、人間の性が本来善であることを悟るであろう。人間の性が本来善であることを悟れば、それを与えてくれた天の心が分るのである。自分の本心を大切に保存し、その性をそこなわないように育ててゆくことが、天につかえる道になるのである」と「性」の本質が述べられている。

梅岩はその「性」を知ろうと日夜悩みぬき、30代後半に禅宗の僧小栗了雲と巡りあう。師に従って1年半余り、心を尽くして工夫を続け、39歳の頃、母たねの看病のため、帰省した折りに突然開悟する。介護続きで大変疲れていたことであろう。家の扉を開けて表へ出た瞬間に「忽然として年来のうたがひ散じ、尭舜の道は孝悌のみ(中略)。性は是天地万物の親と知り、大いに喜びをなしたまへり」という境地に至った。「尭舜のように正しい言動を行えば誰でも尭舜になれる」という自明の理に気付く。自らが志す道は一つ「人に人たる道を教えたい」との覚悟の腹が据わった瞬間と言えよう。

この体験を、京都に戻り了雲に話したところ、群盲象をなぜるのたとえのように全体を見ていない、自分の性が天地万物の親であると見た目が残っている、性には目がないからその目をいま一度離れよ、と指摘される。

そしてまた日夜寝食を忘れて工夫し、1年余り。「ある夜、深更におよび、身つかれ、夜の明けしをもしらず、臥したまひしに、後の森にて雀のなく声きこえける。其時腹中は大海の静々たるごとく、また晴天の如し。(中略)それより自性見識の見を離れたまひし」と、ここに至って遂に大悟に達し得た。

梅岩は、誰でもが昼夜間断なく苦しむ中で忽然と開悟できる、その時の嬉しさは死んだ親が蘇って再び現れてもその楽しみに勝るものはないと表現する。これは文字(学問)によって為るのではなく、修行することにより為すのであると、日々の実践の大切さを語っている。

(4)講舎を開き民衆教化
1729年(享保14年)車屋町御池上ルの借家で講舎を開く。講席に際し家の前に常に掲げた書付は「何月何日開講、席銭いらず申し候。無縁にても御望の方々は、遠慮なくお通りお聞き成さるべく候」。また女性も歓迎し、男席とは簾で分け女子が学ぶ環境を整えた。

最初は聴衆も少なかったが、徐々に評判が高まり、毎日の自宅での講席に加え、京都のみならず、大阪・河内などへの出講釈が増えていった。
常に使用した書は「四書・孝経・小学・易経・詩経・大極図説・近思録・性理字義・老子・荘子・和論語・徒然草等」。和論語・徒然草を除いては、中国の古典であり、儒教の文献を中心に据えていた。

彼の主著は1739年刊行の『都鄙問答』で、梅岩53歳のとき門人5名と城崎温泉に籠もって、過去の講義録などを集大成した。

全14段のうち重点箇所は「都鄙問答の段」「性理問答の段」である。前者は郷里の人が梅岩を訪ね性を知ることへの詰問を、後者は儒学者が性に対する疑義を唱えている。両段の応答の中で、大悟体験からくる信念の発露と、自身の志を述べようという強い思いが伝わってくる。質問の儒学者は「四書五経」など書物での知識は豊富であるが、心の会得や性善の本質についての梅岩の反間に答えられない。文字に拘泥するばかりで、悟道体験を理解できないために、教えのもたらす功徳が解らない。このような人を梅岩は「文字芸者」と呼ぶ。

梅岩は説く。道を悟る心が本体で、五倫(父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり)はその作用である。本体が確立して初めてその作用が可能となる。仁義礼智信の良心は、その五倫を実行する心であり、その心は一である。性を知れば人の道(五倫五常)はその中に備わっているという。

「梅岩の教学の目指したところは、安んじて善を行い、努めずして悪を避けるまでに熟達した心境を万人の中に醸し出させようとすることにあった。」(石川謙)
「神儒仏のいずれもが心を磨く道具で、一つも捨てず、一つにこだわらず」「どの教えも心を悟るためにある」「学んで体得する心は一つである」とし、何れの宗教も肯定した。しかし身近の朝夕における拝礼順序は、天照皇大神宮、竃の神、故郷の氏神、大聖文宣王(孔子)、弥陀釈迦仏、師、先祖父母等で、神道、儒教、仏教の順と明確に定めていた。

◆この項について、さらに深く知りたい方は、当舎220周年・法人格取得100周年記念シンポジウムにおける、当舎理事・京都大学大学院 辻本雅史教授による基調講演録のページをご覧下さい(ここをクリックしてください)

手島堵庵(1718~1786年)
梅岩の門弟達の中でも、教化伝道に最大の貢献をなした人物をあげるとすると、手島堵庵その人であろう。

堵庵は1718年に京都に生まれた。屋号は近江屋、名は喬房。母は上河家の出。青年で両親を亡くし、祖母に育てられる。父の親しい友が斎藤全門であったため、35年、17歳で梅岩の門に入った。19歳で開悟の心境に到るなど早熟で、梅岩にその才を認められ、孟子になぞらえられている。若干20歳で『都鄙問答』校訂にも参加
しており、梅岩の逝去時には27歳と高弟の中で最も若かった。

その後、43歳までの16年間はひたすら家業にいそしんだ。60年に初めて出講釈をする。またこの年に梅岩の17回忌を営む。翌年師の遺塾で毎朝中庸を講じた。同年、長男に家業を譲り、教化活動に邁進することになる。背景としては、梅岩の直弟子である木村重光が56年に、杉浦止齊が60年に、斎藤全門が61年に相次いで世を去り、いよいよ堵庵が梅岩の遺志に応える時期がきたわけである。

堵庵は謙虚にも「我は教えをなす身柄にはあらねども、先輩すでに没せられしかば止む事を得ず学びがてらに講釈をなすなり」と述べている。そして門弟を「友」と呼び、隠居の身であるからと謝礼は一切受け付けなかった。堵庵の講釈は活況を呼び、聴衆は梅岩の時代には40~50人であったものが、堵庵においては数百名から、千人に及ぶときもあった。

堵庵の第一等の功績は、梅岩学を「石門心学」と名付け、講舎を次々に設け、その質を維持発展するための諸制度を制定したことにある。62年の五楽舎を皮切りに、修正舎・時習舎・明倫舎(以上京都三舎)、恭敬舎などを京都に開いたほか、大阪に明誠舎など4舎、江戸に参前舎など2舎を設けた。「会友大旨」制度を確立し、集まりを「会輔」と呼び、各舎に「都講(庶務責任者)」「輔仁司(事務)」「会友司」の三役を置いた。会輔において用いる書物を「四書、近思録、小学、都郡問答、斉家論」に限定して、講座の均質化や内容の高度化に心を配ったことが窺える。

79年に中澤道二を江戸に布教のために派遣する。これが、武士階級に石門心学が広がる端緒をなした。

悟りを開く心境に達しえたことを梅岩は「性を知る」と述べているが、堵庵は「本心
を知る」「本心発明」などと平易な言葉に置き換えた。そしてその域に達したと確認できた場合には、梅岩門下であることを証するものとして、京都三舎より「断書」を発行した。

また彼は学問とは文字を読むことでなく、家業を専らにすることであると説く。「不思議にしてうけ得たる家業なればこそ天命也。しかれば我が家業を少しも粗略にしぬれば則ち天命に背いて大罪なり」と言い切っている。自身の商業者としての体験からくる説得力ある言葉は、梅岩を彷彿させる。

受講者は成人のみでなく、「前訓」(男子7歳から15歳、女子7歳から12歳への講話)、「児女ねむりさまし(いろは歌)」などをテキストにし、子供向けのわかりやすい説話を試み、毎回の記録を配布し理解増進に務めた。また、師梅岩同様、女性への導きも熱心で「女冥加解」など、女性向けの出版物も刊行している。その他、刊行物も多く、以後の石門心学の興隆の原典をなした。

中澤道二(1725~1803年)
中澤道二は商業者として刻苦修行を重ねる中で心学に出会い、江戸に梅岩哲学を拓く開祖者となり、武士階級に師の教えを伝播した功は堵庵の業績に匹敵するものがある。道二は1725年(享保10年)に京都の織職を業とする家に生まれる。屋号が亀屋、俗称久兵衛。55歳で剃髪し道二を名乗る。

幼少時は貧しく学問をする余裕もなく、12歳で同職の家に奉公に出される。生家は代々日蓮宗の信者で両親は信仰心が厚かった。成人し織職で身を立てることになるが、家業の傍ら仏教の修行に励み、41歳の折り、西山等持院で禅師の法話を聞き、日々静座工夫することにより、大悟に到る。日々職域の中で下座に助み宗教心を深める様は梅岩と相似するところである。70年(45歳)頃、同世代の呉服商布施松翁(松葉屋伊右衛門、1725~1784年)の紹介で7歳年長の手島堵庵の門下に入る。堵庵が講席をはじめて5~6年と油の乗った時期にあった。すでに開悟体験のある道二は師堵庵の警咳に接し、更なる奥義を極めたようである。

78年に道二は江戸に行き、請われて講話を行った。その評判よろしきを得て、翌年正式に手島堵庵が道二を江戸に派遣することを決定し、江戸日本橋通塩町の炭屋源蔵方に仮住まいし、講説を開始した。

81年に「参前舎」を設立。同年には本多肥後守忠可(播磨山崎藩主)が道二に入門するという、心学発展史上、画期的な快事を得た。その後、たちまちのうちに武士階級に心学が普及し、83年には第二の講舎「慎行舎」、90年に「盍簪(こうしん)舎」を設立するに到る。

道二は堵庵と同様、講釈が人気を呼び、91年の参前舎新築落成の記念道話には千人を超える聴衆が集まったという。

「道話」の形式は道二により確立された。竹中靖一氏は、話しぶりの面白さは「鳩翁道話」の方が優れているが、力強さは「道二翁道話」におよぶものがないと評している。

道二の生前に、関西の総帥上河淇水と関東の大島有隣の対立が起きるが、心学界長老として両者の間に立って労を取り融和に努めた。また、堵庵、淇水に破門された脇坂義堂を救い、関東においてその才を大きく開かせたほか、池田寛月、北条玄養など淇水と不和となった人材もよく用いた。道二は彼の道話そのままに、人心を集め和合に心血を注いだ。1803年、道二は79歳で参前舎にて生を終えた。鳥辺山の梅岩墓地の隣に分骨され、その際には数千人が送ったという。当時、心学講舎は全国に82舎、うち道二指導は24舎を数えた。

慈音尼(1716~1778)
近江国吉田村(現草津市吉田町)の人。梅岩に直接薫陶を受けた女性門下生。師の没後、その教えを伝道するため、率先勇躍して関東に赴いた。

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脇坂義堂(?~1818)
京都の人。生家は出版業。若くして手島堵庵・布施松翁に師事する。心学界では早くから才を顕したが、舌禍で苦節、波乱の生涯を送る。豪商との交友を活かして逢坂の関の土木工事等を行い、万民の助けとなった。
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大島有隣(1755~1836)
武蔵国葛飾郡大島村(現埼玉県杉戸町大字大島)の人。大島家は、旗本三宅家の要人で、当地の名主を務める名家。江戸で中澤道二の薫陶を受け、関東を石門心学のもう一つの中心として、各地を主導する役割を担うまでにした。
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柴田鳩翁(1783~1835)
梅岩よりほぼ100年後の人。京都堺町に生まれる。生家は奈良物屋という飛脚業。軍書講談師として名声を得ていたが、心学に志した。「心学道話」といえば「鳩翁道話」と言われるほどの達人であり、江戸後期の人心の浄化に大きく貢献した。

鳩翁道話を江戸時代の文字でお楽しみ下さい。…現代落語にも、鳩翁道話由来の演題がいくつもあります。その内の一つ「貸雪隠(かしせっちん)」を天保10年刊の「鳩翁道話」から写真版で紹介しています。古文書に興味のある方はご覧下さい。(ここをクリックしてください)。
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石田梅岩の門弟の系譜
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