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翁は、童子を呼んで、「しばらくは人の絶え間であろう。そなたも休め。私は見残した夢を見よう」と言って、机にもたれて眠った。 (夢の中に)蝸牛が出て来て、「私の左の角に触氏の国があり、右の国には蛮氏の国があって、互いにいつも争っているということが、古い書物(荘子)に載っている。それはどういう意味ですか。作者がそれを書いた気持ちがわからないので、私はまだ答えていません。どう答えたらいいでしょうか」と翁に尋ねた。 (そこで)翁は、「それは、人間のからだが極めて小さいものであることを悟らせようとするためである。おまえも井戸の中に住む連中であるから、大海があることは知らないだろう。世界中のすべての川が昼夜を隔てず流れ込んでいるが、海は水の満ちあふれることはない。日照りは続いているが、海の水が減ったのは見たことがない。これによって大海の大海たることを知るがよかろう。さてまた、上を見ればきりがないものである。天地という上下の世界、東西南北という四方の世界が広大であることは、これもまた計ることができないものである。その計ることができないほど大きなものの中にこの大海があるのは、それは雨の後にできた小さな水たまりのようなものだ。また、下を見ればきりがない。その水たまりの中に多くの国が存在するのは、大きな倉に入っているひえ粒にも譬えられ、それを粟散辺土とも言うし、蒼海の一粟とも言っている。この粟粒一つの中に、中国もあり、インドもあり、日本もある。まず、日本について言う場合、六十州余りあって、その六十余州の中の一つの国に一つの郡があり、一つの郡の中に一つの荘があり、一つの荘の中にもまた一つの村があり、その一つの村の中にも、貴・賤の者や貧・富の者の区別がある。大もあり小もあって、それぞれが家を構え、『私は何のなにがしである、拙者は何の何兵衛であるぞ』などと、おごり高ぶった気持ちを強く出して、お互いに利益を争うことを、おまえの角にも国があって争っているということを、それに譬えているのである。私からまたおまえを見れば、わずか小指にも足りないほど小さな家を、わがもの顔に角を突き出しているが、取るに足りない有り様であることよ」と答えた。 蝸牛は角を引っ込めて、「私は以前に、『真の道を知っている者は、小であっても少ないとは思わず、大であっても多いとは思わない。また、何かを得ても喜ばず、失っても悲しまないし、生が福で死が禍であるとも感じない』というのを聞いたことがある」と言った。 翁は、手を挙げてさえぎり、「もうそこまででよい。まあまあ休め」と言ったのだった。 |
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第二十一話 翁、蛞蝓を見、問うて曰く、「①蝉は飲んで食らはず、蚕は食つて飲まず、汝食らふ歟、飲む歟。未だ其の沙汰を聞かず。何を食うて楽しみとするや」。 蛞蝓の曰く、「我聞く、『常に②厚味に飽く人は厚味に馴れて、厚味を厚味と知らず。たま/\厚味なきに逢へば楽しまず。常に③麁食に馴るゝ人は、麁食を麁食と覚えずして、麁食をたのしむ。たま/\厚味ある時は、又甚だ楽しむ。是によつて見る時は、④貧しきかたに楽しみ多き歟」。 翁の曰く、「然らず。⑤道を知らざる人は、貧しければ苦しみ、富んでも又苦しむ。道を知るときは、富んでも楽しみ、貧しくてもまたたのしむ。翁、道を知つてたのしむとにはあらね共、⑥常にへらず口をいうて笑ふ。先づ金銀持たざれば、盗賊の恐れなく、かねの無心言ひ掛けられても、有るものを無い顔して貸さずんば、⑦底気味あしき所あらん。無いを無いというて仕舞へば、底きみ悪ろき事もなし。⑧寺社の奉加帳なども、銀持ち衆の五両、三両付かれたをば、不足に思ひ、あの身体にて、五両、三両は何事ぢや。せめて⑨レコ位は付けさうなものなりと、譏る人もあれど、我等が百銭、二百銭付けたをば納得して、誰も譏らず。千貫目持ちが、俄に五百貫目も損をせば、⑩石で手を詰めた様に、気を痛めん。持たぬものゝ目から見ては、残つて五百貫目のかね持ちなれば、結構なる身体、⑪気を打つ事はあるまじき事なれ共、持つたが病か、心を苦しめ胸をいたむる。翁は終に持つてみざれば、此のくるしみかつてなし。家屋敷をもたざれば、⑫葺き替へ根継ぎの世話もいらず。借家住みの⑬忝さは、町内に小事が出来ても知らぬがち、捨て子の時も気を揉まず、倒れ者が有つても苦にならず。諸道具も数無ければ、⑭宿替へをするに世話数無く、小借家の事なれば、夏は暑にこまれども、是も下見れば程なし。又一段我等より小さい所に住む人来て、かゝる家に住んでこそと、羨みし事あれば、暑さも又堪忍へ安し。扠方々に、店や⑮掛屋敷を持ちし人の耗らず口を聞けば、『⑯赤紙の付いた状が来れば、もし出火にてはあるまい歟と、見ぬ先に胸が踊り、船の怪我ではあるまいかと、聞かぬ内に心遣ひ、⑰大きな所は大きな風、何の角のと心労多し。誰がためにかく心労するぞといふに、我等夫婦に子壱人、⑱纔か三人の口過ぎせんとて、大勢の人を抱へ、⑲人形遣ひの人形に遣はるゝごとく、年中此の人に遣はるゝ。此の如くして⑳願以此功徳何が徳ぞ。21死ぬるとき次の間でひそ/\言ふ者の多いのと、葬礼が賑やかなばかり也。人数多有りたりとて、病む時取り減いでは煩はれぬ。山海の珍味をならべても、22食らふ所は口に適ふに過ぎず』とは、昔の人の耗らず口。 我また銭なしの悲しさは、23初茄子とて、価の高い、未だ味の無い所を食ふ事のならぬと、24浅瓜のはしりとて、苦い内を賞翫せざるは不自由なれども、最少まつて値の安い、ほんの味の付いた時、食ふまでと思へば、是とても苦にならず。苦にならぬ事を苦にして苦をするは、25苦をすることの好きが苦をする。是も又耗らず口」。 |
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翁は蛞蝓を見て、「蝉は水を飲むが何も食べないし、蚕はものを食べるが水は飲まない。おまえはものを食べるのか、それとも水を飲むのか。まだその話を聞いたことがない。何を口にして楽しみとしているのだ」と尋ねた。
蛞蝓は、「私は、次のように聞いています。『美食を食べ過ぎた人は美食に慣れて、美食を美食と感じなくなる。粗食に慣れた人は、粗食を粗食だと感じないで、粗食を楽しんでいる。たまたま美食を味わう時は、はなはだそれを楽しむ』。このことによって考えてみると、貧しい方にかえって楽しみが多いのでしょうか」と答えたのだった。 翁は、「そうではない。本物の道を会得していない人は、貧しいと苦しむばかりでなく、富んでもやはり苦しむのである。道を知った人は富んでも楽しみ、貧しくてもまた楽しむ。この翁は、道を知って楽しむというのではないが、いつも自分勝手な屁理屈を言って笑っているのである。何しろ金銀を持っていないので、盗賊に襲われる恐れがないし、金の無心を言いかけられても、金があるのにない顔をして貸さないと、何となく感じの悪いところがあるだろうが、ないものをないと言ってしまえば、感じ悪いところもない。寺や神社の奉加帳に記載された内容なども、金持ち衆が五両や三両と記載されたら、人は不足だと思い、あの身代で五両や三両とは何事じゃ。せめてこれぐらいの金額は寄進してもよさそうなものだと、悪口を言う人もあるだろうが、私などが百銭か二百銭ほど寄進したのを納得して、誰も悪口を言う者はいない。千貫目持ちの大金持ちが、急に五百貫目も損をすると、進退窮まったように、ひどく心配することであろう。金銀を持たない者の目から見ると、残った五百貫目の金持ちであるので、結構な身代であり、憂鬱になる必要はないはずなのに、金を持ったことが病のもとか、心を苦しめて胸を痛めている。この翁はこれまでに一度も金を持ったことがないので、このような苦しみは経験したことがない。家屋敷も持っていないので、屋根の葺き替えや土台の継ぎ足しの世話もいらない。借家住まいのありがたさは、町内で苦情が出て来ても知らぬ顔で、捨て子のある時も気をもまず、行き倒れがあっても苦にならない。家財道具も数が少ないので、引っ越しをする際にも手間が少なく、小さな借家のことなので、夏は暑さに困るけれども、これも下を見ればきりがない。また、私などよりさらに小さい家に住む人が来て、こんなりっぱな家に住んでこそと、羨んだこともあったので、暑さも我慢できないことはない。一方また、あちらこちらに店や貸家を持った人の減らず口を聞くと、『赤紙を貼り付けた回状が来ると、もしや(近所の)出火ではないかと、見る前に胸がどきんとしたり、(あるいは)商売用の船の事故ではないかと、聞かないうちに気を遣う。大規模な商売をしているところは大きな影響があり、何のかのと気苦労が多い。誰のためにこんな苦労をするかと言うと、我ら夫婦に子ども一人、わずか三人の生計を立てようとして、大勢の雇い人を抱え、人形を遣って世渡りをする人形遣いが、人形に縛られた生活をしなければならないように、年中この人たちに使われている。このような状態で、「願以此功徳(望むことはこの功徳でもって)」など何の徳があるか。死ぬ時には、控えの間などで遺産や形見分けを巡ってひそひそと相談するものが多いことと、葬式が賑やかになるだけのことだ。人数がたくさんいるからと言って、病気になった時に精神の束縛から離れられなくては思い悩んでしまう。山海の珍味が並べられても、食べる物は自分の好みに合うものだけである』という昔の人の減らず口だった。 私のまったく銭のない悲しさは、初茄子といって、値段の高い、まだ味のないものを食うことがないのと、白瓜の初物といって、苦いものを賞味しないのは不自由であるが、もう少し待って値段の安い、本当の味が付いた時に食うまでだと思っているので、このことも何の苦にもならない。苦にならないことを苦にして苦しむのは、苦しいことをするのが好きで苦しいことをしているだけのことだ。これもまた減らず口じゃ」。
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