「賣卜先生糠俵・後編」紹介第9回
第十六話・第十七話(読み下し文、現代語訳)
恩田満
2010.03.10
今回は、「賣卜先生糠俵・後編」の第十六話・第十七話をお届けします。
第4回から、サーバー容量の関係等により、原文・挿絵の写真版は省略し、読み下し文と現代語訳のみの紹介とさせていただいています。

* 前回迄同様、詳しい注釈および解説については、筆者下記ホームページ内の 「日本の古典」 の項をご参照いただきたいと思います。
(読み下し文の数字を振っている語句について、注釈を付けています)。

    http://onda.frontierseminar.com/

* 本文および注釈・解説などを引用あるいは転載なさる場合は、必ず事前に筆者の了解を得て下さい。

   なお、底本は、「心学明誠舎」 舎員の飯塚修三氏の蔵書から複写したものを使用しています。

近世文書に馴染みのない方は、現代語訳だけをお読みいただいても、心学道話の面白さを味わっていただけます。下記をクリックしてください。(編集者)
   【 現代語訳 】 第十六話→  第十七話→


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第十六話

(おきな)童子(どうじ)()んで、「此の(つぎ)()そ」

「@我等(われら)年寄つて、堪忍(こらへ)(じやう)なく、A内徒(うちと)の者を(しか)るを()きて、(となり)の人のいはるゝには、『其元の堪忍(こらへ)(じやう)なく、家内(かない)むつまじからざるは、年のよつたばかりでない。学問(がくもん)の無き(ゆゑ)ぢや。学問せよ』と有るに()き、B手の(すぢ)を見て(もら)ひに参つた。我等(われら)がやうな(ただ)親父(おやぢ)も、学問の出来(でき)手筋(てすじ)ありや。御考へ給はるべし」。

翁の曰く、「C学もんせうと思ふ志さへ出来たらば、外を尋ぬるまでもない。近い所に()()がある。D我が身の(うへ)定木(じやうぎ)()され。人、()(おや)(うやま)うて下さるが(よろこ)ばしくは、我又人の親を敬へ。人の(しん)せつなるが(うれ)しくは、人を深せつにし、(かみ)たる人にしかられて心よからずは、下たる人を(しか)らぬやうにし、E(おのれ)(ほつ)せざる所を、人に(ほどこ)す事なかれ。(うち)()の者の、思ふやうに回らぬは、F(かゆ)い所へ手の届かぬやうなものぢや。自身(じしん)(からだ)を自身の手でかくにさへ、おもふやうには回らぬものを、人が(かゆ)い所をかくやうには()かぬ(はづ)ぢや。人々(はら)()ていでも()む事ぢや。(はら)()てまいとおもへども、G折節(をりふし)は腹立て(いか)(のゝしり)り、跡にては立つまじき腹立て、人にも腹を立てさせしと()やめども、またしては腹をたてる。大酒は(どく)なりといふ事は、人も()自身(じしん)にも覚え、大酒はすまいとおもへども、折節は()()し、H(くすり)(はり)のと(さわ)ぎ、人にも(しか)られ、自身も()りて、もはや一生大酒はせじと、あとにては悔やめども、またしては()()し、又しては飲み過ぐす。我が心さへ我が思ふやうには行かぬものを、ましてや人が思ふやうに行くべきか。まづIチンプンカンはいらぬ。かんにんの四字から修行(しゆぎやう)めされ。堪忍(こらへ)(じやう)のないといふは()(まま)にて、堪忍(かんにん)のならぬといふ事はないものぞ。J(はる)(さむ)いと(あき)(ひだる)いは、堪忍のならぬものに、むかしからいふてあれど、是とても堪忍(かんにん)するときはする。扠又本人(ほんにん)にも()(てん)させず、K(しわ)をよせたり、白髪(しらが)にしたり、目をかすめたり、()()いたり、Lちようさいぼうにしられても、堪忍せねばならぬ事には、どんな親父(おやぢ)も堪忍する。Mぢやによつて、堪忍のならぬ事は()いものぢや。扠今も()ひしごとく、()が心さへ、我がおもふやうに()くまいがの。其の我が心の全体(ぜんたい)吟味(ぎんみ)するが、まづ学問(がくもん)の第一なり。工夫(くふう)してまた/\御出で」。
 

【第十六話 現代語訳】

 翁は、童子を呼んで、「この次は誰だ」(と尋ねた)。

(ある商家の主人が)「私は年を取って、こらえ性がなくなり、使用人を叱るのを隣の人が聞いておっしゃるには、『あなたがこらえ性がなく、家の中が睦まじくないのは、年を取ったことだけではない。学問がないためです。学問をなされ』ということだったので、手相を見てもらいに参りました。私のような普通の親父でも、学問ができるようになる手相がありますか。お考えをお示しいただきたいと思います」(と語った)。

 翁が答えたのは、「学問をしようという気持ちさえできているなら、他を尋ねるまでもないことだ。近い所にいい師匠がいる。わが身の思いを規準として物事を受け入れなさり、人が自分の親を敬ってくれるのが喜ばしいならば、自分もまた人の親を敬いなされ。人の親切が嬉しいならば、人に親切を施しなされ。上の人に叱られて快くないならば、下の人を叱らないようにして、自分の好まないことを他人に無理強いしてはなりません。使用人たちが思うように回らないのは、自分の痒いところに自分の手が届かないようなものじゃ。自分の体を自分で掻くことさえ、思うようにできないものを、人が痒いところを掻いてくれるようにはいかないものじや。(そういう気持ちでいれば)人々に腹を立てないでも済むことじや。腹を立てないようにしようと思っても、時々は腹を立てて罵ったり、後になると腹を立てないで済んだことにも腹を立ててしまったり、人にも腹を立てさせてしまったと悔やんでも、またしても腹を立ててしまう。(また)大酒は体の毒だということは、人も言い自分でもわかって、大酒はするまいと思っていても、時々は飲み過ごし、薬を飲めだの鍼を打てだのと騒ぎになり、人からも叱られ、自分も懲りて、もう一生大酒はするまいと、後になって悔やむのだが、またしても飲み過ごし、またしても飲み過ごす。自分の心さえ自分が思うようにはいかないものを、ましてや人が自分の思うように動くものか。まずは、さっぱり訳のわからないことはいらない。かんにんの四文字から修行なさるがよい。こらえ性がないというのはわがままであって、我慢できないということはないはずじゃ。春先の寒さと食欲の進む秋のひもじさなどは我慢ができないものと、昔から言われているが、このことでも我慢するときはするものだ。ところでまた、本人にも納得させないことだが、皺が寄ったり、白髪になったり、目がかすんだり、歯が抜けたりすることなどについては、たとえ愚か者だと知られても、我慢しなければならないことであり、(それは)どんな親父でも我慢するものだ。そういうことだから、我慢のならないことはないものじゃ。さて、今も言ったとおり、自分の心さえ、自分が思うようにはいかないだろう。その自分の心の全体を吟味するのが、学問の第一であるのだ。よく考えを巡らせてまた訪ねてきなさい」(というものだった)。

 

(第十七話・現代語訳へ→)

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第十七話

「私は田舎(いなか)の百姓。(せがれ)(ほう)(こう)(つか)はし度く、@かねて()るべの方を頼み置き、(たゞ)()れて(のぼ)る所。(さいはひ)の見通様、(なに)商売(しやうばい)(さう)(おう)すべき。御考へ給はるべし」。

翁の曰く、「商売の相応不相応は、我等(われら)に聞きては、A結句(けつく)邪魔(じやま)に成る事があるものぢや。是はまづ頼み置きし知るべの方へ、()()いてBとつくりと相談の上、(きは)むるがよかるべし。(とし)は十一()、二か、奉公の(くち)はC(なん)ぼもあるぞ。扠、親父(おやぢ)どの、四、五年も奉公させ、Dまんまと用に()時分(じぶん)()(もど)す、智恵付(ちえつ)けといふやうな事ではないか。其の手も間々(まま)有ると聞いたが、是は(はなは)だよからぬ事ぢや。たとへ主人とE相対の上にもせよ、京の()い事を見習(みなら)うて(いん)では、田舎(いなか)()には合はぬのみ歟、気ばかりが(たか)うなり、着物(きもの)食物(くひもの)にまで不足(ふそく)をいひ、(のち)にはもてあますものFぢやげな。兎角(とかく)百姓は百姓、船乗(ふなの)りは船のり、田舎に()む者は、やつぱり田舎仕立てがよいげな」。

親父の曰く、「私共は(わづ)田畑(たはた)G十(たん)()らずの百姓にて、三人の(せがれ)()て、是を三つに()けて(ゆづ)れば、H三人ながら(いつ)(しやう)身を()にはたらかざれば、Iはつたいも()はれぬ身分(みぶん)()れを不便(ふびん)に存ずるから、せめて壱人(ひとり)は奉公致させ、(すゑ)出世(しゆつせ)(ねが)ふばかり。J中々栄耀(ええう)ではござりませぬ」。

翁の曰く、「K焼野(やけの)雉子(きぎす)、夜の(つる)、子を思はざるものはなし。然りながら可愛(かはい)さも、(うら)(まは)ればL姑息(こそく)といふ(あい)に成る。Mかならず(あま)(どく)()はせまいぞ。とり()け奉公する子には、親の(あま)いがきつい(どく)や。(にが)(くすり)を用いるが()い。

むかし、N(みやう)()上人の(には)の草を、鹿(しか)の来て(くら)ひしを、上人見給ひ、『アレ()てよ叩けよ』と、声あらくO下知(げぢ)をなし、自身(じしん)にも(つゑ)()りあげ、(なさ)けなく()ひ給ふ。弟子(でし)(しゆ)(おどろ)き、(つね)()はりし()()()ひ、『ものにくるはせ給ふか』といひあへり。上人()こし()され、『人に()れさせまじき為なり。人なれて(さと)(いで)なば、(つひ)には人に(いのち)()られん。不便(ふびん)さにいたく()たせしなり』と仰せられしとかや。其元(そこもと)も子が不便ならば、P(あつ)(やいと)()たが()い。(さて)息子よ、今親父(おやぢ)()はれし事を覚えてゐるか。在所(ざいしよ)()ては、(すき)(くわ)(どろ)まぶれ、(あぢ)ないものを()ひ、よごれたる物を()て、一生(いつしやう)辛苦(しんく)心労(しんど)をせねばならぬ。親は()れを不便(ふびん)におもひ、奉公をさせるのぢや。必ず親の心を(わす)れまいぞ。扠()れにござる手代(しゆ)()(つい)でぢや。(ここ)()て御聞きあれ。面白(おもしろ)い咄がある。サア/\づつと()つて聞き給へ。

さる手代二、三人、Q遊所(いうしよ)にてR遊女(をやま)芸子(げいこ)(たわむ)れて曰く、『此の京中の遊女(おやま)芸子(げいこ)、東西南北(かぞ)えて見れば、(おびただ)()(かず)ならん。其の内にS()()されて片付(かたづ)くは、百人に(わづ)か四、五人ある()なし。21その(のこ)りの(いろ)(たち)は、何になるぞ。22(てふ)に成つ()()るといふ沙汰(さた)もきかず。23(せみ)()りしとて()(がら)も見ず。24古物店(ふるものだな)()()りみせにも、25手の()けたおやまぢやの、26足の折れた芸子(げいこ)やのと、出てあるをも(つひ)に見ぬ。何処(どこ)()えて仕舞(しま)ふやら』と27不審(ふしん)()つれば、遊女の曰く、『仰せの通り、遊女の(かず)(おほ)からんが、然りながら、京中に(つと)めてござる御手代衆の数に(くら)べば、百ぶんのひとつもあるまじ。其の(おびただ)しき御手代衆の中にも、28首尾(しゆび)よく宿(やど)這入(ばい)りなさるゝおかたは、百人の内に十人歟、十五人、廿人には29()らぬげな。其の残りのかた/゛\は、何になつて仕舞ふやら。仙人(せんにん)にでも成りなさるゝか、(ひげ)()らず髪も()はず、30()葉衣(はごろも)()ひさうな物を()て、河原(かはら)()てござるお(きやく)を見たといふ人もあり。31てつかい仙人のやうな(なり)なつて、歩行(あるい)てござるお方をば、私も32折節(をりふし)見もしたが、皆々(みなみな)仙人に成りもすまい。33何処(どこ)ぞに這入(はい)(あな)でも有る歟。不審(ふしん)なるは34こなたより、あなた方の御()(うへ)(すゑ)はどうなる事ぢややら』と、芸子(げいこ)は三味せん()き立つれば、三人の手代共、少しは()ひが()めたやら、こそこそ()げて帰りけり。35いかさま遊女のいひしごとく、此の(おびただ)しき手代の内、首尾(しゆび)()宿(やど)這入(はい)るは(まれ)にして、多くはしくじつて仕舞ふと見えたり。我が身を(わす)れし者共かな。()の我が身を(わす)るゝ(もと)はといへば、親の心を忘るゝゆゑなり。親の心を忘るゝ故、36不奉公して流浪(るらう)したり、37金など遣うて欠落(かけおち)したり、親の心を(くる)しむる、手をもつて(ころ)さねども、親の(いのち)(ちぢ)むる不孝(ふかう)(かく)(ごと)き人々は、たとへ38利発(りはつ)に有らうが、(さん)(ぴつ)(すぐ)れうが、(ひろ)世界(せかい)(たたず)(どころ)は有るまじきぞ。扠また親の心を(わす)れざる人は、不奉公して流浪せば、親に苦労(くらう)()くるとおもひ、蔭日(かげひ)なたなく大事に(つと)め、喧嘩(けんくわ)口論(こうろん)して、人に(きず)でも付くる()。身に怪我(けが)でもある時は、親の心を(いた)むると思ひ、随分(ずいぶん)(もの)(ごと)堪忍(かんにん)して、39()けて居る様に身を()ち、()めば親の(あん)じるとおもひ、40不養生(ふやうじやう)せず、浮雲所(あぶないところ)へゆかず、(ただ)何事も親の心にまかする故、少々(どん)でも不器用(ぶきよう)でも、主人(しゆじん)にも見捨(みす)てられず、朋輩(ほうばい)にも(にく)まれず、身も(をさ)まり出世(しゆつせ)もする。

翁が懇意(こんい)(うち)の手代なる者、廿五歳のとき、半年も()たざる内に、其の主人の夫婦(ふうふ)、共に(びやう)()す。(あと)は三才の男子ばかり。此の手代、是を守り立て、41相続(さうぞく)せんと心を(くだ)き、主人の一家(いつけ)一門へ此の(おもむき)(ねが)ひ、扠また(おのれ)旧里(きうり)へ行きて、親兄弟(きやうだい)にいとまを()ひ、(なげ)いて曰く、『我等(われら)四、五年の内には宿へも這入(はい)り、両親も安堵(あんど)させまし、兄弟の(こころ)便(たよ)りにもなるべしと、(たの)しみに思ひし(ところ)(ぞん)よらぬ不幸(ふかう)()ひ、42主人御夫婦(ふうふ)(はな)れ、43(あと)とりは幼稚(えうち)なり。甚だ家の(あやふ)ふき場所(ばしよ)(われ)及ばずながら後見(こうけん)して、44(あと)相続(さうぞく)(ねが)ふなり。然れば宿(やど)這入(ばい)りの事は勿論(もちろん)、此の後(きうり)へ御見舞ひ申す事も(まれ)なるべし。此の義御許容(きよよう)下さるべし』と、(なみだ)(なが)しての(ねが)ひ、此の時親の心に成り、忠義を(かん)じて、45(よろこ)ぶまい()()めまいか。其の後、此の人大酒せず、飽食(はうしよく)せず、46(ばい)(よう)にて(きふ)なる時も、47矢橋(やばせ)(わた)らず馬に()らず、常に曰く、『主人生長(せいじん)するまでは、我が身ながら大事の身なり』と、養生(やうじやう)堅固(けんご)(つと)めしなり。是を()き、親の心、48安堵(あんど)せざらんや、悦ばざらんや。(これ)()は親の安堵するやうに身を()、親の悦ぶ(やう)(おこな)(ゆゑ)49(ちゆう)()ち、(かう)もたち、我が身も立つ。此の所玩味(ぐわんみ)すべし。此の人、(なつ)50丹波布を()、冬は木綿(もめん)(ほか)身につけず、万事質素(しつそ)にして、家業(かげふ)油断なかりしゆゑ、(いへ)(ますます)繁盛(はんじやう)して、今も(なほ)あり」

 

【第十七話 現代語訳】

「私は田舎の百姓ですが、息子を奉公に出したく、以前から知り合いの方に頼んでおいて、ただいま連れて帰るところです。望ましい形の見通しが立つには、どの商売がふさわしいでしょうか。お考えをお示しいただきたいと思います」。

 翁は、「商売の向き不向きは、わしに聞いても結局は邪魔になることがあるものじゃ。これはまず頼んでおいた知り合いの方に、落ち着いてゆっくりと相談の上で決めるのがよかろう。年は十一か二か、奉公の口はどれだけでもあるぞ。さて、親父殿、四、五年ほど奉公させて、首尾よく役に立つようになった頃に呼び戻す、智恵付けというようなものではないのか。その手も間々あるとは聞いたが、これは甚だよくないことじゃ。たとえ主人と納得しあった上でのことにもせよ、京の面白いことを見習ってから帰るのでは、田舎では役に立たないばかりか、気ばかりが高くなり、着る物や食べる物にまで不足を言うようになり、後には扱いに困るようになるそうだ。とかく百姓は百姓、船乗りは船乗り、田舎に住むものは、やっぱり田舎仕立てよいそうだぞ」と答えた。

(それに対して)親父は、「私どもは田畑がわずか十反足らずの百姓で、三人の息子を持ち、これを三つに分けて譲るとすれば、三人全部が死ぬまで身を粉にしてはたらかなければ、はったいも食べることができない身分です。それをかわいそうだと思うので、せめて一人だけでも奉公させて、将来の出世を期待するだけのことです。決して贅沢しようというのではありません」と言ったのだった。

(そこで)翁は、「雉は野を焼かれるとわが子を救おうと巣に戻り、鶴は冬の寒い夜には自分の翼でわが子を覆うというように、子を思わない親はない。しかしながら、その可愛さも裏へ回ればその場しのぎの愛ということになる。決して甘い毒を食わせてはならないぞ。とくに奉公する子には、親の甘さがきつい毒じゃ。苦い薬を用いるのがよい(では、その例をいくつか示し申そう)。

むかし、妙恵上人の庭の草を、鹿がやってきて食べたのを、上人がご覧になって、『あの鹿を打ちなさい、叩きなさい』と、声荒く指図を下し、自らも杖を振り上げ、非情にも追い払いなさった。弟子たちは驚いて、いつもと違う師の振る舞いに『気が狂いなさったのか』と言い合った。(それを)上人がお聞きになって、『人間に馴れさせないようにするためである。人間に馴れて人里へ出るようになれば、最後には人間に命を奪われるだろう。それがかわいそうなのでひどく打たせたのである』とおっしゃったそうである。そなたも子どもがかわいそうだと思うならば、熱いお灸を据えた方がよい。さて、息子よ、いま親父さんがおっしゃったことを覚えているか。親の所にいては、鋤や鍬を使って泥にまみれ、うまくもないものを食って、汚いものを着て、一生つらい苦労をしなければならぬ。親はそれをかわいそうだと思って、お前を奉公に出すのじゃ。決して親の気持ちを忘れてはならないぞ。さて、そこにいらっしゃる手代衆もよい機会じゃ。ここへ来てお聞きあれ。面白い話がある。さあさあ、ずっと寄ってお聞きなさい。

ある手代たち二、三人が、遊郭で遊女や芸者に戯れに、『この京都中の遊女や芸者は、東西南北を数えてみれば、おびただしい数になるだろう。その中で請け出されて一緒になれるのは、百人にわずか四、五人あるかないかだろう。その残りの女たちは、どうなったのだ。蝶になって飛び去ったという話も聞かない。蝉になったというその抜け殻も見ない。古物商や露天商の店にも、腕がない遊女だの、足が折れた芸者だのとして出ているのも見たことはない。どこへ消えてしまったのだろうか』と言って、疑問をはさんだところ、遊女は、『おっしゃる通り遊女の数も多いが、しかし、京都全体で勤めていらっしゃるお手代衆に数に比べれば、百分の一もないでしょうよ。そのおびただしいお手代衆の中でも、うまい具合に暖簾分けをしてもらえたお方は、百人のうち十人か十五人かで、二十人には足らないそうですね。その残りの方々は、何になってしまったやら。仙人にでもおなりになるのか、髭も剃らず髪も結わず、木の葉ごろもとでも呼びそうな粗末な物を着て、川原に寝ていらっしゃったお客を見たという人もいる。鉄拐仙人のような乞食姿になって歩いていらっしゃるお方を、私もときどき見たりもしましたが、皆がみな仙人になることもないでしょう。どこかに入る穴でもあるのでしょうか。不審に思うのは、こちらよりもあなた方の身の上の方です』と言って、芸者が三味線を弾いてはやし立てると、三人の手代たちは、少し酔いが覚めたのだろうか、こそこそと逃げ帰ったのであった。なるほど遊女が言ったように、このおびただしい数の手代のうち、うまい具合に暖簾分けをしてもらえる者はまれで、多くはしくじってしまうと思えた。我が身を忘れた者たちであるよ。その我が身を忘れてしまう根本はと言えば、親の心をわすれたからである。誠意を持って主人に仕えることをせず生計の道を失って路頭に迷うことになったり、金などを使い込んで行方をくらましたりして、親の心を苦しめるのは、手でもって殺しこそしないが、親の命を縮める不孝である。このような人々は、たとえ賢かろうが、計算や読み書きに優れていようが、広い世界にも居場所があるはずはないぞ。さてまた、親の心を忘れない人は、不真面目な奉公をして路頭に迷うようなことになれば、親に苦労を掛けると思って、陰日向なく大事に勤めるもので、喧嘩口論をしたり、人に傷でも付けることがあろうか。自分の身に怪我でもある場合は、親の心を痛めると思い、たいへん物ごとに我慢をして、負けてばかりいるように振る舞い、病気になれば親が心配すると思い、不養生をせず、危ないところへ行かないといった風に、ただ何事も親の心にまかせるので、少々鈍でも不器用でも、主人からは見捨てられず、同僚からも憎まれずに、身も治まり出世もすることになるのである。

私が懇意にしている手代が、二十五歳の時、半年も経たないうちに、その主人の夫婦がともに病死をしてしまった。後には三歳の男の子一人が残された。この手代は、この子を守り立てて跡目を引き継ごうと気を配り、主人の一家一門へこの趣を願い出てから、そしてその後で自分の故郷へ出向いて、親兄弟に暇乞いをして嘆きつつ、『私は、四、五年のうちに暖簾分けをしてもらって、両親を安心させよう、兄弟の期待にも応えようと、楽しみに思っていたところ、思いも寄らない不幸に出遭い、主人夫婦が亡くなって跡取りはまだ幼い。はなはだ奉公先が危険な状態です。私が及ばずながら後見をして、先代の跡目を継ぐことを願うのです。ですから暖簾分けのことはもちろん、今後は故郷へお見舞い申し上げることも稀になるでしょう。このことをお許し下さるようお願いします』と涙を流して語ったのだった。この時(私は)親の気持ちになり、忠義を感じて、大喜びをして誉めはやした。その後、この人は大酒せず、飽食せず、商売の用事で急ぎの時にも、矢橋をわたって近道をすることも馬に乗って急ぐ(ような危険な)こともせず、いつも『主人が成長するまでは、我が身ながら大事な体である』と言って、かたく養生に努めたのであった。これを聞いた親の気持ちとして、安堵しないことがあろうか、喜ばないことがあろうか。これらは、親が安堵するように身を保ち、親が喜ぶように行動したので、主人への忠義も立ち、親への孝行も立ち、自分自身も立つものであった。そのところをよく理解して味わうべきである。この人は、夏は丹波物を着て、冬は木綿以外の物は身につけず、万事質素にして、家業も油断しなかったので、家はますます繁盛していまでもなお続いている」と(翁は)語ったのである。

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