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翁は、童子を呼んで、「この次は誰だ」(と尋ねた)。 (ある商家の主人が)「私は年を取って、こらえ性がなくなり、使用人を叱るのを隣の人が聞いておっしゃるには、『あなたがこらえ性がなく、家の中が睦まじくないのは、年を取ったことだけではない。学問がないためです。学問をなされ』ということだったので、手相を見てもらいに参りました。私のような普通の親父でも、学問ができるようになる手相がありますか。お考えをお示しいただきたいと思います」(と語った)。 翁が答えたのは、「学問をしようという気持ちさえできているなら、他を尋ねるまでもないことだ。近い所にいい師匠がいる。わが身の思いを規準として物事を受け入れなさり、人が自分の親を敬ってくれるのが喜ばしいならば、自分もまた人の親を敬いなされ。人の親切が嬉しいならば、人に親切を施しなされ。上の人に叱られて快くないならば、下の人を叱らないようにして、自分の好まないことを他人に無理強いしてはなりません。使用人たちが思うように回らないのは、自分の痒いところに自分の手が届かないようなものじゃ。自分の体を自分で掻くことさえ、思うようにできないものを、人が痒いところを掻いてくれるようにはいかないものじや。(そういう気持ちでいれば)人々に腹を立てないでも済むことじや。腹を立てないようにしようと思っても、時々は腹を立てて罵ったり、後になると腹を立てないで済んだことにも腹を立ててしまったり、人にも腹を立てさせてしまったと悔やんでも、またしても腹を立ててしまう。(また)大酒は体の毒だということは、人も言い自分でもわかって、大酒はするまいと思っていても、時々は飲み過ごし、薬を飲めだの鍼を打てだのと騒ぎになり、人からも叱られ、自分も懲りて、もう一生大酒はするまいと、後になって悔やむのだが、またしても飲み過ごし、またしても飲み過ごす。自分の心さえ自分が思うようにはいかないものを、ましてや人が自分の思うように動くものか。まずは、さっぱり訳のわからないことはいらない。かんにんの四文字から修行なさるがよい。こらえ性がないというのはわがままであって、我慢できないということはないはずじゃ。春先の寒さと食欲の進む秋のひもじさなどは我慢ができないものと、昔から言われているが、このことでも我慢するときはするものだ。ところでまた、本人にも納得させないことだが、皺が寄ったり、白髪になったり、目がかすんだり、歯が抜けたりすることなどについては、たとえ愚か者だと知られても、我慢しなければならないことであり、(それは)どんな親父でも我慢するものだ。そういうことだから、我慢のならないことはないものじゃ。さて、今も言ったとおり、自分の心さえ、自分が思うようにはいかないだろう。その自分の心の全体を吟味するのが、学問の第一であるのだ。よく考えを巡らせてまた訪ねてきなさい」(というものだった)。 |
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第十七話 「私は田舎の百姓。忰を奉公に遣はし度く、@かねて知るべの方を頼み置き、唯今連れて登る所。幸の見通様、何商売が相応すべき。御考へ給はるべし」。 翁の曰く、「商売の相応不相応は、我等に聞きては、A結句邪魔に成る事があるものぢや。是はまづ頼み置きし知るべの方へ、落ち着いてBとつくりと相談の上、極むるがよかるべし。歳は十一歟、二か、奉公の口はC何ぼもあるぞ。扠、親父どの、四、五年も奉公させ、Dまんまと用に立つ時分に呼び戻す、智恵付けといふやうな事ではないか。其の手も間々有ると聞いたが、是は甚だよからぬ事ぢや。たとへ主人とE相対の上にもせよ、京の能い事を見習うて帰では、田舎の間には合はぬのみ歟、気ばかりが高うなり、着物や食物にまで不足をいひ、後にはもてあますものFぢやげな。兎角百姓は百姓、船乗りは船のり、田舎に住む者は、やつぱり田舎仕立てがよいげな」。 親父の曰く、「私共は纔か田畑G十反足らずの百姓にて、三人の忰を持つて、是を三つに分けて譲れば、H三人ながら一生身を粉にはたらかざれば、Iはつたいも食はれぬ身分。夫れを不便に存ずるから、せめて壱人は奉公致させ、末の出世を願ふばかり。J中々栄耀ではござりませぬ」。 翁の曰く、「K焼野の雉子、夜の鶴、子を思はざるものはなし。然りながら可愛さも、裏へ回ればL姑息といふ愛に成る。Mかならず甘い毒を食はせまいぞ。とり分け奉公する子には、親の甘いがきつい毒ぢや。苦い薬を用いるが能い。 むかし、N妙恵上人の庭の草を、鹿の来て食ひしを、上人見給ひ、『アレ打てよ叩けよ』と、声あらくO下知をなし、自身にも杖振りあげ、情けなく追ひ給ふ。弟子衆驚き、常に替はりし師の振る舞ひ、『ものにくるはせ給ふか』といひあへり。上人聞こし召され、『人に馴れさせまじき為なり。人なれて里へ出なば、終には人に命を取られん。不便さにいたく打たせしなり』と仰せられしとかや。其元も子が不便ならば、P熱い灸を据えたが能い。扠息子よ、今親父の言はれし事を覚えてゐるか。在所に居ては、鋤鍬の泥まぶれ、味ないものを食ひ、よごれたる物を着て、一生辛苦心労をせねばならぬ。親は夫れを不便におもひ、奉公をさせるのぢや。必ず親の心を忘れまいぞ。扠夫れにござる手代衆も能い序でぢや。爰へ出て御聞きあれ。面白い咄がある。サア/\づつと寄つて聞き給へ。 さる手代二、三人、Q遊所にてR遊女芸子に戯れて曰く、『此の京中の遊女芸子、東西南北算えて見れば、夥敷き数ならん。其の内にS請け出されて片付くは、百人に纔か四、五人ある歟なし。21その残りの色達は、何になるぞ。22蝶に成つて飛び去るといふ沙汰もきかず。23蝉に成りしとて脱け空も見ず。24古物店や干し売りみせにも、25手の抜けたおやまぢやの、26足の折れた芸子ぢやのと、出てあるをも終に見ぬ。何処へ消えて仕舞ふやら』と27不審立つれば、遊女の曰く、『仰せの通り、遊女の数も多からんが、然りながら、京中に勤めてござる御手代衆の数に競べば、百ぶんのひとつもあるまじ。其の夥しき御手代衆の中にも、28首尾よく宿這入りなさるゝおかたは、百人の内に十人歟、十五人、廿人には29足らぬげな。其の残りのかた/゛\は、何になつて仕舞ふやら。仙人にでも成りなさるゝか、髭も剃らず髪も結はず、30木の葉衣と言ひさうな物を着て、河原に寝てござるお客を見たといふ人もあり。31てつかい仙人のやうな形になつて、歩行てござるお方をば、私も32折節見もしたが、皆々仙人に成りもすまい。33何処ぞに這入る穴でも有る歟。不審なるは34こなたより、あなた方の御身の上、末はどうなる事ぢややら』と、芸子は三味せん挽き立つれば、三人の手代共、少しは酔ひが醒めたやら、こそこそ逃げて帰りけり。35いかさま遊女のいひしごとく、此の夥しき手代の内、首尾能く宿へ這入るは稀にして、多くはしくじつて仕舞ふと見えたり。我が身を忘れし者共かな。其の我が身を忘るゝ本はといへば、親の心を忘るゝゆゑなり。親の心を忘るゝ故、36不奉公して流浪したり、37金など遣うて欠落したり、親の心を苦しむる、手をもつて殺さねども、親の命を縮むる不孝。此の如き人々は、たとへ38利発に有らうが、算筆に勝れうが、広い世界に佇み処は有るまじきぞ。扠また親の心を忘れざる人は、不奉公して流浪せば、親に苦労を掛くるとおもひ、蔭日なたなく大事に勤め、喧嘩口論して、人に疵でも付くる歟。身に怪我でもある時は、親の心を痛むると思ひ、随分物毎に堪忍して、39負けて居る様に身を持ち、病めば親の案じるとおもひ、40不養生せず、浮雲所へゆかず、唯何事も親の心にまかする故、少々鈍でも不器用でも、主人にも見捨てられず、朋輩にも憎まれず、身も治まり出世もする。 翁が懇意中の手代なる者、廿五歳のとき、半年も立たざる内に、其の主人の夫婦、共に病死す。跡は三才の男子ばかり。此の手代、是を守り立て、41相続せんと心を砕き、主人の一家一門へ此の趣を願ひ、扠また己が旧里へ行きて、親兄弟にいとまを乞ひ、嘆いて曰く、『我等四、五年の内には宿へも這入り、両親も安堵させまし、兄弟の心便りにもなるべしと、楽しみに思ひし処、存じよらぬ不幸に逢ひ、42主人御夫婦に離れ、43跡とりは幼稚なり。甚だ家の危ふき場所。我及ばずながら後見して、44跡相続を希ふなり。然れば宿這入りの事は勿論、此の後旧里へ御見舞ひ申す事も稀なるべし。此の義御許容下さるべし』と、涙を流しての願ひ、此の時親の心に成り、忠義を感じて、45悦ぶまい歟、誉めまいか。其の後、此の人大酒せず、飽食せず、46売用にて急なる時も、47矢橋を渡らず馬に乗らず、常に曰く、『主人生長するまでは、我が身ながら大事の身なり』と、養生堅固に勤めしなり。是を聞き、親の心、48安堵せざらんや、悦ばざらんや。是等は親の安堵するやうに身を持ち、親の悦ぶ様に行ふ故、49忠も立ち、孝もたち、我が身も立つ。此の所玩味すべし。此の人、夏は50丹波布を着、冬は木綿の外身につけず、万事質素にして、家業油断なかりしゆゑ、家益繁盛して、今も猶あり」。 |
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「私は田舎の百姓ですが、息子を奉公に出したく、以前から知り合いの方に頼んでおいて、ただいま連れて帰るところです。望ましい形の見通しが立つには、どの商売がふさわしいでしょうか。お考えをお示しいただきたいと思います」。 翁は、「商売の向き不向きは、わしに聞いても結局は邪魔になることがあるものじゃ。これはまず頼んでおいた知り合いの方に、落ち着いてゆっくりと相談の上で決めるのがよかろう。年は十一か二か、奉公の口はどれだけでもあるぞ。さて、親父殿、四、五年ほど奉公させて、首尾よく役に立つようになった頃に呼び戻す、智恵付けというようなものではないのか。その手も間々あるとは聞いたが、これは甚だよくないことじゃ。たとえ主人と納得しあった上でのことにもせよ、京の面白いことを見習ってから帰るのでは、田舎では役に立たないばかりか、気ばかりが高くなり、着る物や食べる物にまで不足を言うようになり、後には扱いに困るようになるそうだ。とかく百姓は百姓、船乗りは船乗り、田舎に住むものは、やっぱり田舎仕立てよいそうだぞ」と答えた。 (それに対して)親父は、「私どもは田畑がわずか十反足らずの百姓で、三人の息子を持ち、これを三つに分けて譲るとすれば、三人全部が死ぬまで身を粉にしてはたらかなければ、はったいも食べることができない身分です。それをかわいそうだと思うので、せめて一人だけでも奉公させて、将来の出世を期待するだけのことです。決して贅沢しようというのではありません」と言ったのだった。 (そこで)翁は、「雉は野を焼かれるとわが子を救おうと巣に戻り、鶴は冬の寒い夜には自分の翼でわが子を覆うというように、子を思わない親はない。しかしながら、その可愛さも裏へ回ればその場しのぎの愛ということになる。決して甘い毒を食わせてはならないぞ。とくに奉公する子には、親の甘さがきつい毒じゃ。苦い薬を用いるのがよい(では、その例をいくつか示し申そう)。 むかし、妙恵上人の庭の草を、鹿がやってきて食べたのを、上人がご覧になって、『あの鹿を打ちなさい、叩きなさい』と、声荒く指図を下し、自らも杖を振り上げ、非情にも追い払いなさった。弟子たちは驚いて、いつもと違う師の振る舞いに『気が狂いなさったのか』と言い合った。(それを)上人がお聞きになって、『人間に馴れさせないようにするためである。人間に馴れて人里へ出るようになれば、最後には人間に命を奪われるだろう。それがかわいそうなのでひどく打たせたのである』とおっしゃったそうである。そなたも子どもがかわいそうだと思うならば、熱いお灸を据えた方がよい。さて、息子よ、いま親父さんがおっしゃったことを覚えているか。親の所にいては、鋤や鍬を使って泥にまみれ、うまくもないものを食って、汚いものを着て、一生つらい苦労をしなければならぬ。親はそれをかわいそうだと思って、お前を奉公に出すのじゃ。決して親の気持ちを忘れてはならないぞ。さて、そこにいらっしゃる手代衆もよい機会じゃ。ここへ来てお聞きあれ。面白い話がある。さあさあ、ずっと寄ってお聞きなさい。 ある手代たち二、三人が、遊郭で遊女や芸者に戯れに、『この京都中の遊女や芸者は、東西南北を数えてみれば、おびただしい数になるだろう。その中で請け出されて一緒になれるのは、百人にわずか四、五人あるかないかだろう。その残りの女たちは、どうなったのだ。蝶になって飛び去ったという話も聞かない。蝉になったというその抜け殻も見ない。古物商や露天商の店にも、腕がない遊女だの、足が折れた芸者だのとして出ているのも見たことはない。どこへ消えてしまったのだろうか』と言って、疑問をはさんだところ、遊女は、『おっしゃる通り遊女の数も多いが、しかし、京都全体で勤めていらっしゃるお手代衆に数に比べれば、百分の一もないでしょうよ。そのおびただしいお手代衆の中でも、うまい具合に暖簾分けをしてもらえたお方は、百人のうち十人か十五人かで、二十人には足らないそうですね。その残りの方々は、何になってしまったやら。仙人にでもおなりになるのか、髭も剃らず髪も結わず、木の葉ごろもとでも呼びそうな粗末な物を着て、川原に寝ていらっしゃったお客を見たという人もいる。鉄拐仙人のような乞食姿になって歩いていらっしゃるお方を、私もときどき見たりもしましたが、皆がみな仙人になることもないでしょう。どこかに入る穴でもあるのでしょうか。不審に思うのは、こちらよりもあなた方の身の上の方です』と言って、芸者が三味線を弾いてはやし立てると、三人の手代たちは、少し酔いが覚めたのだろうか、こそこそと逃げ帰ったのであった。なるほど遊女が言ったように、このおびただしい数の手代のうち、うまい具合に暖簾分けをしてもらえる者はまれで、多くはしくじってしまうと思えた。我が身を忘れた者たちであるよ。その我が身を忘れてしまう根本はと言えば、親の心をわすれたからである。誠意を持って主人に仕えることをせず生計の道を失って路頭に迷うことになったり、金などを使い込んで行方をくらましたりして、親の心を苦しめるのは、手でもって殺しこそしないが、親の命を縮める不孝である。このような人々は、たとえ賢かろうが、計算や読み書きに優れていようが、広い世界にも居場所があるはずはないぞ。さてまた、親の心を忘れない人は、不真面目な奉公をして路頭に迷うようなことになれば、親に苦労を掛けると思って、陰日向なく大事に勤めるもので、喧嘩口論をしたり、人に傷でも付けることがあろうか。自分の身に怪我でもある場合は、親の心を痛めると思い、たいへん物ごとに我慢をして、負けてばかりいるように振る舞い、病気になれば親が心配すると思い、不養生をせず、危ないところへ行かないといった風に、ただ何事も親の心にまかせるので、少々鈍でも不器用でも、主人からは見捨てられず、同僚からも憎まれずに、身も治まり出世もすることになるのである。 私が懇意にしている手代が、二十五歳の時、半年も経たないうちに、その主人の夫婦がともに病死をしてしまった。後には三歳の男の子一人が残された。この手代は、この子を守り立てて跡目を引き継ごうと気を配り、主人の一家一門へこの趣を願い出てから、そしてその後で自分の故郷へ出向いて、親兄弟に暇乞いをして嘆きつつ、『私は、四、五年のうちに暖簾分けをしてもらって、両親を安心させよう、兄弟の期待にも応えようと、楽しみに思っていたところ、思いも寄らない不幸に出遭い、主人夫婦が亡くなって跡取りはまだ幼い。はなはだ奉公先が危険な状態です。私が及ばずながら後見をして、先代の跡目を継ぐことを願うのです。ですから暖簾分けのことはもちろん、今後は故郷へお見舞い申し上げることも稀になるでしょう。このことをお許し下さるようお願いします』と涙を流して語ったのだった。この時(私は)親の気持ちになり、忠義を感じて、大喜びをして誉めはやした。その後、この人は大酒せず、飽食せず、商売の用事で急ぎの時にも、矢橋をわたって近道をすることも馬に乗って急ぐ(ような危険な)こともせず、いつも『主人が成長するまでは、我が身ながら大事な体である』と言って、かたく養生に努めたのであった。これを聞いた親の気持ちとして、安堵しないことがあろうか、喜ばないことがあろうか。これらは、親が安堵するように身を保ち、親が喜ぶように行動したので、主人への忠義も立ち、親への孝行も立ち、自分自身も立つものであった。そのところをよく理解して味わうべきである。この人は、夏は丹波物を着て、冬は木綿以外の物は身につけず、万事質素にして、家業も油断しなかったので、家はますます繁盛していまでもなお続いている」と(翁は)語ったのである。
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