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(ある客が)「私は、息子を三人持っています。長男は何はともあれ人並みの能力があるので、これにはあとを継がせるつもりです。二番目の息子は聡く賢い人間で、どんな商売でもやりかねない奴です。ただ、苦になるのは三番目の息子で、百姓もできない鈍物です。それゆえ出家を思いつきました。生計を立てるには何宗がふさわしいでしょうか」(と訪ねた) 翁が答えたのは、「頭を剃って仏門に入る者は、財産を捨ててから家を出て、食事は一日に一食で、睡眠は樹下で一宿だけする(ものだ)といって、同じ木の下に続けては寝ないという(ほど厳しい)ものなのに、生活のために出家をさせ、仏様を利用して生活せよなどというのはあきれ果てた親心だ。そなたのような親がいるから、出家した者の中にも、本当の出家ではない出家もいるそうだ。これはその出家した者の罪ではない。そなたのような親がいて、無邪気な子どもを言葉巧みにたぶらかし、出家ほどありがたいものはないぞ。鋤や鍬を握って百姓をするわけでもなく、荷物を担いで運ぶ商人の仕事をすることもなく、すばらしいものを着飾って、長老様だの和尚様だのと、立派な輿に乗っては世間の人々から敬われる。親よりも立派だなどと勧めて納得させられ、涙ながらに頭を剃って、年少の僧の間は世の中のこともわからず、どうという考えもなく過ごしているが、日陰のぬれでの葉でも、紅葉する時期が来れば紅葉していくように(色気づき)、女性の顔立ちのよしあしが目に留まり、小唄の声や三味線の音が耳に残り、酒の面白い味を覚え初めては、もはや(仏前の焼香に用いる)抹香の香りが鼻について、仏様のお顔を拝む毎日三度の勤行にもすっかり飽きて、寺の山門から外に出ると極楽だと、お寺を苦しみの家のように思い、最後には親をも恨む状態になる。とりわけ(女の子を)幼いうちから尼にするのは、よそ目から見ても気の毒じゃ。自ら仏門に入る決心をした上での出家でさえ、堕落する者もいると聞いている。生計を立てるだけのことならば、出家をしなくても、簡単で身にふさわしい家業があるだろう。子どもが生まれれば乳が出るようになる。頭の回転が遅く動作がのろい者はそれなりに、体に障害がある者もそれなりに、食い扶持はあるものだ。しかしながら、父がしっかりと教育をしなければ、子どもは利口にならないのである。教えれば鼠でも酒を買いに行く。さて、鼠に関して思い出した話がある。 昔、盆徳寺の正損といって尊い和尚がいた。ある日、正時の食事をした帰りに海辺を通り、なまこが海に漂っているのを見て、それを嘆いて、『ああ、寝ているのか目をさましているのか、どちらが尻でどちらが頭なのか。たまたま、受けるのが難しい人間世界に生を受けたのに、目が付いていないので仏像も拝まず、耳が付いていないので仏法を聞くこともない。口は南無阿弥陀仏と唱えることも出来ない。漁師がやって来て突き刺そうとするが、逃げようとする知恵もなく、まな板に載せられても、跳ね回って逃げる力もない。わらで縛られて一生を終えることになるのだろう。危ういことよ、現世でこのような状態であるので、ましてや未来はうまくいきそうもない』と言って、海鼠に功徳を施して帰った。 その夜、海鼠は和尚の枕元に立って嘆き、『ああ、寝ているのか目覚めているのか。僧侶なのか俗人なのか。たまたま、出るのが難しい俗世を出たのに、目があるせいでさまざまな美しいものに夢中になり、耳があるせいで三味線の音色に心を奪われ、口は飲酒や虚言を留めることも出来ない。信者たちが酒を飲もうとやってきても、それから逃れる知恵もなく、駕籠などの乗り物に乗っても、費用を自分で払う力もない。借金に縛られて一生苦しむことになるだろう。小さな支払いでもやはりこのようである。ましてや大口の支払いはうまくいきそうもない。危ないことだ。危ないことだ』と言い捨てて帰ろうとした。 和尚は(海鼠の)衣にすがって、『お願いです。出来ることなら教えを受けたいものです』と語った。 海鼠は(地面に)ずるずるべったりと座り、『私は天地世界を一つの家だと考えるので、菩薩の救済も金品の世話もいらない。上に本山の寺もなく下に支配下の寺もなく、中に檀家もないので、納豆の仕込みにも気を使わない。和尚は耳や目がないことを憐れんだが、私は耳や目がないおかげで、信者たちの嫌味も聞かないで済む。檀家の苦い顔を見ることもない。口がないので、僧が正時に食する米を念入りに調べることも知らない。富貴になることにも関心がないので、福徳の神とされる大黒天の来臨を懇請することもない。ころりと服を着たまま寝て、寒さ暑さのつらいことも知らないので、季節の終わりに気をつかうこともなく、郷里の姪を呼び寄せることもないので、不義の疑いを受ける覚えもない。この世でさえ無為自然に生きている。ましてや、死して干し海鼠になった時はなおさらのことである』と、まな板に水を流すようによどみなくすらすらと立て続けに次々と、いう声ばかりが(和尚の)寝耳に残ったが、(海鼠は)体をちょっと折り曲げてお辞儀して帰ってしまった。 さて、先ほどからの長話、みなそなたへの注意のためである。このようなご出家というものが今もあるというのではない。翁の例によっての悪口だから、決してご他言は無用に願いたい」というものだった。 |
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第十三話 「先生けふは@売りか買ひ歟。一寸御考へたのみたし」
翁、A居直り、「誰ぞと思ふたらB銭屋金兵衛、C此の間もいふ通り、D不実商売は寿命の毒。E足下親からの商売といふではなし、殊に親もあり妻子もある身、もしF手合いが違うて負けて仕舞ふか、G気でも打つて煩へば、H其のもとは其元なれども、跡の難儀。I翁は交易の道を知らざれば、Jいふは近比慮外ながら、先づK不実商ひといふ名が悪い。L爰へ出合はぬ事歟しらねど、M孔子は盗泉の水を飲まず、N曾子は勝母の里に入らず。O是皆名のあしきを悪み給へばなり。P売つての仕合わせ買つての幸ひこそ交易の本意ならめ。Q売人に徳を得れば、買人に損あり。買人徳を得れば、売人損あり。R近ういへば勝負事、門前の売買。汝勝たば人負けん、人勝たば汝負けん。S汝負けなば、汝の家内流浪すべし、人まけば、人の家内流浪せん。家内の流浪も慮らず、人の流浪も顧みざるは、是21不仁の至りなり。22不実商内とは贔屓口、不仁商内というて可ならん。是は翁が例の悪口。言ひ過ぐしは御免あれ」
客の曰く、「23拙者は御存知の小胆故、米には掛からず、24金の相場は、纔づゝ慰みがてら致せども、仰せの如く寿命の毒。相場事にかゝるものは、胸をいためたり、血を吐いたり、心痛とやらで死んだもあり。それ程にまで身を入れて、25立身すればよけれ共、立身するは稀にして、多くは皆潰れて仕舞ふ」
翁のいはく、「26貨悖つて入る者は、亦悖つて出づるといふ。27偶立身仕たりたりとも、仕舞ふも又早からん。夫れは時の運ともいへ、爰にひとつ問ふ事あり。28命が尊いものなるか、足壱本が尊いもの歟」
客、顔をながめて曰く、「翁、何事を仰せらるゝぞ。29手足も大事の代呂物なれども、命に競べらるべきか」
又問ふ、「30足一本給はらば、31陶朱倚頓がごとく富まさんといはゞ売るべき歟」
曰く、「32唐日本にかくれなき富を得るとも33足なくて何の楽しみ」
翁曰く、「命に競べては値打ちの低い足でさへ、唐日本にかくれなき陶朱倚頓が富にも替へぬ。然るに34手足にくらべては遥かに尊い大せつなる命をば35纔か十戸前か廿戸前の富に替へるは、いかなる事ぞ。かかる人世間に多し。売買下手といはんか、上手といはんか。36素人目には見えぬ/\」
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(客が)「先生、今日は売りですか、買いですか。ちょっとお考えをお聞かせください」と尋ねると、 翁は居ずまいを正して、「誰かと思ったら銭屋金兵衛か、この前も言ったとおり、先物取引は寿命が縮む商売だ。そなたの親からの商売というわけではなし。とくに親もあり妻子もある身で、もしも相場の見込みが違って負けてしまうか、気がふさいで病気にでもなったならば、その原因はそなただが、跡を継ぐものが難儀する。私は商売の道を知らないので、言うことはたいへんぶしつけであるが、まず、不実商いという名前がよくない。ここへぴったりする話かどうかはわからないが、孔子は喉が渇いても「盗泉」という名の泉の水を飲まなかったし、曾子は「勝母」という名の里に入らなかった。これらはみな、名前が悪いことを嫌っていらっしゃったからである。売った者も買った者もともに利益を得て幸せであることこそ商売の本意であろう。売り手が得をすれば買い手が損をする。買い手が得をすれば売り手が損をする。身近なところで言えば勝負事や寺社の門前での商売(と同じだ)。そなたが勝てば人が負け、人が勝てばそなたが負けるだろう。もし、そなたが負けたならば、そなたの家の者がさまよい歩くことになろう。家の者が路頭に迷うことも考慮せず、人の破滅も顧みないのは、これまさしく慈愛の心のなさの極みである。不実商いとは好意的な言い方で、不仁商売と言ってもよいだろう。これは私のいつもの悪口だ。言い過ぎはお許しあれ」(と答えた)。 客は、「私はご存じの通り小心者ですので、米相場には手を出しません。金の相場については、わずかずつ趣味程度には致しておりますが、仰せの通り寿命の毒です。相場ごとに関わる者は、心臓を悪くしたり、血を吐いたり、心痛とやらで死んだ人もいます。それ程までに身を入れて、(それで)生活することが出来ればよいけれど、成功するのはまれで、多くはつぶれてしまいます」と言った。 (そこで)翁が「道理に背いて手に入れた財貨は、また道理に背いて出て行ってしまうという。たまたま生計を成り立たせることができたとしても、商売をたたむのもまた早いだろう。それは時の運とも言うが、ここで一つ尋ねたいことがある。命の方が尊いものであるか、それとも足一本の方が尊いものであるか」と尋ねると、 客は(翁の)顔を眺めて、「先生、何事をおっしゃるのですか。手足も大事な代物ではありますが、命と比べることができましょうか」と答えた。 (そこで翁が)また、「足一本くださったら、中国の陶朱・倚頓のように富ませてやろうと言ったならば、売るべきなのか」と尋ねた。 (客は)「中国や日本で誰もが知るほどの巨万の富を得たとしても、足がなくては何の楽しみがあろうか」と答えた。 (翁は最後に)「命とくらべて価値の低い足でさえ、中国・日本で有名な陶朱・倚頓の富と換えることはできない。それなのに、手足と競べてもはるかに尊く大切である命をわずか土蔵が十個か二十個程度の富に替えるのは、どういうことだ。こういう人が世間に多い。(それを)商売下手と言おうか、商売上手と言おうか。素人目ではわからない、わからない。わからない」(と言ったのだった)。 |
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