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売卜先生糠俵 後篇・上 |
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第一話 翁、@売卜のいとま、A机によつて眠り、B夢魂広莫の野に吟行す。C春草所得顔に生ひ茂りたる中に、D麦藁の家あるをみる。主は蛙とおぼしくて、E諸虫数多並み居たり。F亭主の好きの赤蛙、歌の会にやあるらんと、心とまる折しも、G青漆の合羽著たる雨蛙、ヒヨコ/\と飛び出で、何やらガワ/\H口上のべ、案内しつゝ先に入る。主の蛙出向かひ、I名代の丁寧両手を突き、「雨中の来臨J憚り多し。かくのごとく小虫ども相集まり、K毎々会輔致すといへども、L井の内の我々、いまだM大道を聞かず。希くは教へを受けん」 翁、今更、我は売卜なりともいはれず、席を改めN見台に向かつて曰く、「『O道の道とすべきは常の道に非ず、名の名とすべきは常の名に非ず』是はこれP老先生の言葉なり。いづれも此の常の道は如何見られ候ふぞ。一人づゝ答へめされ」 蛙、Qあとじよりして曰く、「R常の会には問ひを出し、互ひに答へを回せども、今日は先生S在す。唯御教示を願ふ而已」。 翁の曰く、「然らば少と御手を上げられい。さう堅ふては咄が出来ぬ。扠21其元は、22不断23両手を突いて腰を伸ばさず、唯24慇懃に25四角四面なるを礼と思へり。26礼の礼とすべきは常の礼に非ず。汝は27外のみ知つて、未だ内を知らざるなり。28姿形を礼とはいはず。礼の形によらざる事を譬へていはゞ、親の喉に餅がつまりくるしむ時は、其の子打ち叩いても危きを救はん。是不孝ならんか孝ならん歟。汝がごとき29僻見の者は、親を打つは不孝なり、叩くは無礼なりとて、30斃るるをまたん。是孝歟不孝歟。31安宅の関の金剛杖も、忠といはん歟、無礼といはん歟。32嫂水に溺るゝ時は、手を取るも不義にあらず、33礼なりと言はずや。是等は外、不義不孝不忠に似て、内、忠孝に叶ひ、礼に中る。34蛙の面に水かもしらぬが、爰をよく聞かれよ。是は道に叶ふ、それは道に背くなどと、35道を梃に遣ふ人あり。是は36其の道とすべき道にて、常の道にあらず。常とは37万古不易をいふ。道とは何ぞ。38本然の妙道、39舌をもつて言ふべからず、筆を以て書くべからず」。 |
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翁は占い仕事の合間に、脇息にもたれ掛かって眠り、夢の中で魂が広々と果てしない野原をそぞろ歩きをしていた。春の草が満足げに生い茂っている中に、麦藁の家があるのが見えた。そこの主人は蛙と思われて、いろいろな小動物がたくさん並んで座っていた。主人の赤蛙が好きな歌会なのであろうか、と(翁が)心を留めたちょうどその時、青漆の合羽を着た(ような)雨蛙がヒョコヒョコと飛び出して来て、何やらガワガワと大声であいさつを述べて、(翁を)案内しながら先に入った。(すると)主人の赤蛙が(翁を)出迎えて、小動物の代表として丁寧に両手をついて、「雨の中のご来臨、たいへん恐縮しております。このようにたくさんの小動物が集まり、毎回、自由な意見交換をしていると言っても、我々は(まさしく)井の中の蛙であって、まだ、真の道というものを知りません。願うことは教えを受けたいということです」(と言った)。 翁は今さら、自分が売卜先生だとも言えず、席を改めて書見台に向かって、「『これが道だと示せるような道は、一定不変の真実の道ではない。これが名だと言えるような名は、一定不変の真実の道ではない』これは老子先生の言葉である。お集まりの皆さんもこの「常の道」をどのように考えていますか。一人ずつお答えくだされ」と言った。 (主の)蛙が後ずさりして、「普段の会合では(心学に関する)問いを出して、お互いに答えを言い合うのですが、今日は先生がいらっしゃいます。ただお教えを願うだけです」と答えた。 (そこで)翁は「それなら少し手を上げなされ。そうかたい態度では話ができない。さて、そなたは、平生両手をついて腰をかがめ、ただ礼儀正しく四角四面にかしこまるのを礼だと思っている。これこそが礼であるとするべき礼は、日常的に行う形式的な表面上の礼ではない。そなたは外見的な礼だけを知っていて、まだ内面的な本当の礼というものを知らないでいる。表面的な礼の姿や形を本当の礼とは言わないのである。本当の礼が形に依らないということを例えて言えば、親の喉に餅がつまって苦しむ時は、その子どもは(親を)叩いてでも危ないところを救うだろう。これは、不孝であろうか(それとも)孝であろうか。そなたのような偏ったものの見方をする者は、親を打つのは不孝であり、叩くのは無礼であるといって、死ぬのを待つのであろう。これが孝なのか(それとも)不孝なのか。安宅の関で弁慶が主君の義経を金剛杖で打ちすえたことも、忠と言うのだろうか、無礼というのだろうか。兄嫁が水に溺れている時は、その手を取るのも不義ではなく、礼であると言わないだろうか。これらのことは、外面的には不義・不忠に似ているが、内面的には忠孝に叶って、(本当の)礼に当たるのである。(何を言ってもそなたには)蛙の面に水かも知れないが、ここをよくお聞き召され。これは道に叶う、それは道に背くなどと(いう風に)、道を梃子のような手段に使う人がいる。これはそれが道だと外に示せるような道であって、一定不変の真実の道ではない。常とはいつまでも変わらないことをいうのだ。道とは何か。(それは)自然のままで人智の加わらない真実の道で、(それは)口で言うこともできないし、筆で書くこともできないものである」と答えた。(第一話終わり) |
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