「賣卜先生糠俵・後編」紹介第2回
第二話・第三話(原文、読み下し文、現代語訳)
恩田満
2009.06.15
今回は、「賣卜先生糠俵・後編」の第二話・第三話をお届けします。お楽しみ下さい。

* 前回同様、詳しい注釈および解説については、筆者下記ホームページ内の 「日本の古典」 の項をご参照いただきたいと思います。
(読み下し文の数字を振っている語句について、注釈を付けています)。

    http://onda.frontierseminar.com/

* 本文および注釈・解説などを引用あるいは転載なさる場合は、必ず事前に筆者の了解を得て下さい。

   なお、底本は、「心学明誠舎」 舎員の飯塚修三氏の蔵書から複写したものを使用しています。

近世文書に馴染みのない方は、現代語訳だけをお読みいただいても、心学道話の面白さを味わっていただけます。下記をクリックしてください。(編集者)
   【 現代語訳 】 第二話→  第三話→


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第二話

 「次なるは(かに)と見えた。@()ぐなる道を横に歩行(あゆむ)、A一見識(いつけんしき)()つての事か」

蟹、()()(いは)く、「(われ)はB心のすぐならざるを()ぢて、(かたち)(よこ)さまなるを()ぢず。(こころ)(なほ)くば、すがた形はC随意(さもあらばあれ)。孝は、D(さる)(しま)(はなし)(のこ)り、(ちゆう)は、E(たけ)(ぶん)(がに)(せなか)(のこ)す。F忠孝二つながら(まつた)し。G(なん)ぞ形の(みにく)きを()ぢん。H(ゆみ)のかたちは(なな)めなれども、(ゆみ)の心は(なほ)きがごとし」

(おきな)(いは)く、「(なんぢ)(かへる)とおなじ事、()()(どころ)(ちが)ふてある。I弓の(なな)めなるは、(すなは)(ゆみ)(なほ)き也。J尺取虫(しやくとりむし)(まが)れるは、()びんと(ほつ)して也。K謝霊雲(しやれいうん)(まが)れる(かさ)は、(なんぢ)がごとき我侭(わがまま)にはあらず。()(かげ)(まが)れるを見て、心を(なほ)くせんため也。L瓜田(くわでん)(くつ)、M李下(りか)(かんむり)(みな)N其の(かたち)のあしきを(いまし)むるなり」

(かに)(よこ)に出でて曰く、「(われ)はO(つづれ)(こがね)(つつ)む。(おきな)はP(つちくれ)(にしき)(つつ)()

(おきな)の曰く、「Q(こがね)を錦につゝむには(いづ)れ」

 

【第二話 現代語訳】

 「次に控えている者は蟹と見た。真っ直ぐな道を横に歩くのは、一つのしっかりした考えがあってのことか」

 蟹は這い出して、「私は心が真っ直ぐでないことを恥じるが、形が横向きであることを恥じることはない。心が真っ直ぐであるならば、姿かたちはどうあろうともよい。孝行は猿ヶ島の話に残り、忠義は武文蟹の背中に残している。忠と孝の両方とも完璧である。どうして姿かたちの醜いことを恥じる必要があろうか。弓の形は曲がっているが、弓の心、すなわち、忠孝の心がまっすぐであるのと同じようなものだ」と言った。

 翁はそれに答えて、「そなたも蛙と同じことで、目の付け所が違っている。弓が斜めであるのは、すなわち、弓が真っ直ぐになろうとしているからだ。尺取り虫が体を縮めているのは、次に体を伸ばして前進しようとするためだ。謝霊雲の曲がっている笠は、そなたのようなわがままな気持ちからではない。自分の影が曲がっているのを見て、心を真っ直ぐにしようとするためだ。瓜畑の中で靴のはき直しをしないことや、李(すもも)の木の下で冠を直すことをしないなどということは、みな自分の行為や態度を戒めるためだからだ」と言った。

 蟹は横に出て、「私は宝物(真っ直ぐな心)をぼろきれで包んでいる。翁は土の塊(価値のないもの)を美しい布に包むのか」と言った。

翁は、「宝物を美しい布に包むというのはどうだろうか」と答えた。


(第三話・現代語訳へ→)

第三話

 「@田螺(たにし)どの/\、Aいまだ(みち)()かざる()。B()(おそ)るゝ事、人よりも(はなは)だし。人の足音(あしおと)(とり)羽音(はおと)、そよと()く風の(おと)にも、C門戸(もんこ)をさす事周章(あはただし)(これ)D()(おそ)(せい)(むさぼ)るにあらざるや。死を恐れ生を貪り、(もん)をかため()()ぢても、E人其の門戸(もんこ)(とも)()りて、F釜中(ふちゆう)()る。要心(えうじん)堅固(けんご)なんの(えき)ぞ」

田螺(たにし)の曰く、「(えき)をもとむるにてもなく、(そん)せじとにもあらず。(ただ)()が用心ふかきは、G人々の目の要心(ようじん)(ふか)きがごときなり。H(めい)(むさぼ)り、(あん)(おそ)るゝにはあらざれども、I(はい)()つてもちやつと()さぎ、(すみ)がはしつても、ちやつと(まぶた)()はす事、J()(はつ)と入るべからず。又()入りたる小児(こども)の、物おとにびく/\するも、()(おそ)るゝといはん()(せい)(むさぼ)るといはんか。K(これ)(わたくし)()らざる(ところ)、L釜中(ふちゆう)()らるゝは天なり。M天を()(もの)(めい)をしる。(もと)よりN(せい)(この)んで()まるゝにもあらず、死を(にく)んで()なざるにもあらず。(かるがゆゑ)に O富貴(ふうき)(ほつ)せず、貧賤(ひんせん)(ほつ)せず、P(たん)(ほつ)せず、(ちやう)(ほつ)せず、Q(けた)なるも(ほつ)せず、(まどか)なるも欲せず」

(おきな)(こゑ)かけ、「これ/\R一対(いつつい)いふても()む事じや。Sいひならべし(ほつ)せず()くし、21(なんぢ)()いては()なれ(ども)22いまだ(みち)とすべきの道を(はな)れず。23(ただ)(ほつ)せざるをも(ほつ)せざれ」

 

【第三話・現代語訳】

 (翁は)「田螺殿、田螺殿、そなたはまだ真の道を聞いていないのか。死を恐れることが人間よりも甚だしいではないか。人間の足音、鳥の羽音、そよそよと吹く風の音を聞いても、蓋を閉ざすさまがあわただしい。それは、死ぬことを恐れて生きることに執着しているのではないか。そなたが死を恐れて生を貪るために、門を固め戸を閉じていても、人間が殻ごと全部を取り上げて、釜の中で煮てしまうのだ。どんなに固く用心していても何の益もないのだ」(と言った)

 田螺は、「私は益を求めるものでもなく、損をするまいというものでもない。ただ私が用心深いのは、人間の目が用心深いのと同じようなものだ。明るさをむさぼり暗さを恐れるのわけではないが、灰が立ってもさっと目を閉じ、墨がはぜてもさっと目蓋をとじることは、ほんの一瞬の動きである。また、眠っている幼児が物音にびくびくするのも、死を恐れているというのだろうか、生を貪っているというのだろうか。(そうではなく)この動作に自分の意志や欲望は入っていないのだ。釜で煮られて死ぬのは天の意志である。天の意志を知る者は、自分の宿命を知っているのだ。私はもともと生を好んで生まれたのでもないし、死を憎んで死なないのでもない。それ故に、財産も高い地位も望まないし、貧困も低い地位も望まない。短も長も欲しないし、四角も円も欲しないのである」と答えた。

 翁は、「これこれ、一組言えば済むことじゃ。言い並べた『欲せず尽くし』は、そなたの場合はよいかも知れぬが、それではまだ、道とすべき道から離れていない。何も欲しないという(ことも意志の現れなので)その「欲せず」という意志をも捨て去って(無の境地に入れ)」と声を掛けて諭した。


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