賣卜先生糠俵・前編第7回(読み下し文、現代語訳)
第十九話~第二十一話
(2010年3月11日寄稿の第十六話~第十八話に続いて、第十九話~第二十一話を寄稿します) |
飯塚修三
2010.04.12
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第4回から、読み下し文と現代語訳、及び、現代語訳に付いている挿絵のみの掲載になっています。原文及び原著挿絵の写真版はファイル容量の関係で省略させて頂きます。申し訳ありません-編集者。
(現代語訳だけをお読みいただく場合はここをクリックしてください)
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其次は誰じゃ (第十九話)
私は田舎者。姑に憎まれて家出いたし。尼にも
成ふ歟。いっそ死んでも仕廻ふかと。取つ置つ。先
占て見て下さりませ。翁算木を投て曰。船の
危を畏れて水に投る者のごとし。甚惡い。今死
では修羅道へまつ逆ま。たとへ尼になったりとて。
世を恨ての尼なれば。是もまた修羅の種。あゝ
若は能がしどが無い。尼に成にも及ばず。死ぬるには
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猶及ばぬ。其方の心ひとつにて。つい丸うなる事
じゃ。是によう似た咄しがある仙壽村の花車
ばゞとて近郷名うての姑有り。年は七十.齒は
なけれど。嫁を嚙事煎餅の如くなれば。鬼ばゞ
とも異名せり。とうく三人嚙出して。今の嫁は
四人目。是は甚だ辛ばう強い。利發なる女なれども
夜晝となくふすべ立られ。餘りの苦しさ耐かねて
今其元のいふ如く。尼に成ふか死ふ歟と。心ひとつに
居かねて。隣の魚屋に是を咄す。此魚屋半兵衛は
范蠡もどきの知恵者にてぐっと呑込み。姑の
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心さへ和がば。四の五のは入まい。其心を和る事。某が方寸にあり。其元の姑に限らぬ事。年寄の意地の
惡いは生れ付では無いやまひじやと。去る御いしゃの
御咄し。此病を治す事。灸でも行ず。針でも届かぬ。
唯一色奇々妙々の藥喰が有とて。傳授を受て
覺て居る。療治して見る心ならば藥は己が調合
して煮焚の加減も傳授せん。一日に二三度宛飯の
とき用てよし。我等醫者にあらざれば藥代は現銀
賃苧紡か。糸を績か。其方の手から拵て。銭持て
取にござれ。扨又爰に大事が有る。此藥を用るうち
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病人に少にても。腹立させる事はならぬ。一寸でも
氣が立てば。藥反て毒となる。打たれうが。擲が。杖の下から機嫌を取。淋しげに見ゆる時は酒にて用ゆるも
又よしと。用やうの秘事口傳言含て歸しぬ。嫁は
敎に随て。朝は烏の先におき。夜の明る迄賃苧紡み。
晝も仕事のすき間には。糸を績ぎ。夜はひとり寝
殘りて。夜半八ッまで賃仕事。糸を績ぎ賃苧紡。
藥味を調へ二三度宛日毎日毎に用けり。未だ二廻りにも
盈たざるに。其驗し。手の裏を返す如く。日頃手強き
鬼者人。我慢の角をころりと落し。嫁子を可愛
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がる而巳ならず。忍辱柔和の佛となり。今に佛ばさま
とて達者で居るげな。是は魚屋の方便にて。旨き
さかなの料理して嫁の力みを抜し故なり。此方に
力む心なければ。先にも力む心なし。たとへば捨小舟が
流れかゝり人の舟にあたりても。此方が捨小舟なれば
先の舟腹は立ぬ。先の舟の怒らざるは。此方の舟に
心無れば也。舟に心有るが最期。互に怒り罵りて
果ては波風荒くなり。何處へ舟が着ふも知れぬ。
我よきに人の惡きは無きものぞ。先の心の和がざる
は此方に力みの有故也。力みを抜ても和がずんば
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力みの抜ざる故と思ひ。又力みを抜べし其上にも
和がざるは。いまだ力みの抜ざる也。又力みを抜べし。
まだ其上にも和がずんば。力みの抜やう足らぬと
思ひ。又々力みを抜べし。いつまでもく。さきの
心の和ぐまでは。此方の心の力みを抜け。笑顔は
打たれぬ物ぞ
其次ぎは誰じゃ (第二十話)
私は望ある身。何れの神。何れの佛に。立願掛て
納受あらん御考下さるべし。翁の曰。心だに誠の
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道にかなひなば祈らずとても神やまもらん。
神は守り通しなり。祈れば守る。祈らずばまもらじと
神に隔る心はなし。人の心が神を隔る誠の道とは
正路也。其眞直なる道を行かず。道ならぬ道を行き。
無量のくるしみ其身をせむるは。皆己がなす災なり。
何れの神に祈らんや。又神は正直の頭にやどると
聞て。唯正直なる頭を撰て宿るやうに思ふ人あり。
不然。一面の神國なれば神の宿り給はざる處やある。
目に見。耳に聞。口に味を知る迄も。神の宿り給ふ
にあらずして誰。但し人の力にて。見たり聞
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たり味を知るとする歟。其神を神と知らず。皺くた
神にするときは視れども不見。聴ども不聞。食へ
ども其味を不知に至る。扨又昔し。枇杷を嗜人有
り。其核の大なるを愁て。淸水に詣で枇杷の核を
なからしめ給へと觀世音に祈誓す。是を聞もの
愚かなりける人也と笑ふ。枇杷の核の愚なる事を
知って笑ふ人も己が日々の願ひ。皆枇杷の核なる事
を知らず。先今日の命の知らで。翌の事を願ひ其
身を愼まで。災の來らぬ様にと願養生はせずし
て無病を願。顔の媿も恥ず。此戀かなへ給へなどゝ
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祈る類皆枇杷の核ならずや。朝毎に神棚に向ひ
めったに顔をしかめ咽をかすり。富貴繁盛息災。
延命。家内安全悪事災難。拂ひ給へ淸め給へと
厄拂ほど云ひ並べ祈るばかりが祈るにあらず。心
だに誠ならば。祈らずとても鶴は千歳。龜は萬年
枇杷は枇杷の味ひ。梅は梅の味。山葵は鼻を弾き。
山椒はひりつく。萬物一つとして神の宿り給はざる
はなし。中にも人は萬物の霊といふ。山葵の鼻を
はじき。山椒のひりつくに恥て。私心私欲をはらひ
たまへ淸めたまへ
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神詠に皆人の直き心ぞ其まゝの神
にて神の神なり
又問。安産あり。難産あり。此考如何。翁曰。人の人を
産を見て。人との人とを産むを見る。人の人を産は。人の
人を産に非ず。何んぞ人の力にて。人の人を産事を
得んや。止む事を得ずして云はゞ。人に因て人の
産るゝならん。客間曰。是は其神の告子。彼は此佛の
告子など。昔しより云傳ふ。如此事も有や。否や。
翁答曰。天下皆。告子也。何んぞ。彼れ此而巳ならん。
禽獣蟲魚草木の出生する。一ッも告子にあらざるは
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なし。又問。告子ならば人力を盡さずしても。懐妊
するや、曰否。只居ては懐妊せず。其人力本と告子
なる事を知って。告子の悟開べし。譬へば田地と種は
告子也。耕と種播は人力なり。人力と告子と合躰
して五穀稔る。是即告子也。又問。告子なれば
難産は有まじきに。難産の間々あるは如何。答。是
皆人力の過る故なり。禽獣蟲魚に難産を聞かず。
可耻く。扨人力にまぎれ物あり。公の人力あり。
私の人力あり。此處見分がたし。工夫をめぐらし
用ゆべし
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其次は誰じゃ (第二十一話)
拙者朋友此頃金の出入にて。晝夜心を苦しめ候。
此義に付て御占頼たし翁の曰。銭かねばかりを
寳と思ひ。其寳に縛れて命を縮る人多し。
命を縮ろ寳らならば。寳なきこそましならめ。眞の
寳といふ物は人々所持する。性根玉なり。此玉を
寳と知らざる人々は。己が勝手の惡き事には。此玉
に瑕を付。而も其瑕をきずと知らず。銭金に
目がくれては。玉の光を失ふに至る。玉不磨光なし。
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日々に磨き。又日々に磨き。明徳を研出すべし。
古語曰。不寳金玉而。忠信以爲寳。又曰。爾以玉爲寳。我以不貧。爲寳
次は誰じゃ (第二十二話)
弟の義に付て御占頼たし。翁の曰。御舎弟が
何とめされた。拙者弟別家いたして七年餘
是迄度々世話いたし遣せども。兎角渡世に
不精にて此際もまた不詰り。其上拙者が異見を
不用。兄を兄とも思はぬ不所存。義絶いたす心にて
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baibokusensei19-21 |
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現代語訳第十九話~第二十一話、挿絵は父・重三
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その次は、誰じゃ。(第十九話)
(姑との折り合いが面白くなく家出した若い嫁が先生を訪ねる)
「はい、私は田舎者でございます。姑に憎まれ家出してきました。尼さんになろうか、死んだほうがいいのかと迷うております」
「船が危ないと恐れて、水に身を投げるの譬えじゃ。尼になったとて、世を恨んでの尼なら修羅の理というもの。まして、死んでしまえば修羅道へまっさかささまじゃ。尼になるには及ぶまい。といって、死ぬのはなお及ばぬというものじゃ。心ひとつで、つい丸うなる。ここによく似た話がある。仙寿村の花車婆というてな、そりゃ近郷近在でも有名な姑がいた。年は七十、歯はないけれど、嫁をかじること煎餅の如しというほどで、鬼婆というあだ名がついておった。とうとう三人かじり出して、今の嫁は四人目じゃ。この嫁は、とって
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も辛抱強い利口な女だが、夜昼となくこき使われては、余りの苦しさに絶えかねてじゃ、その方のいう通り尼になろうか、死のうかと悩んでおった。お隣の魚屋に、相談したのじゃ。魚屋の半兵衛は、なかなかの知恵達者。嫁の話をぐっと呑みこんで、『どうじゃな、姑の心さえ柔らけば、四の五のというまい。その心を和らげることじゃ。そこもとの姑に限らぬ。年寄りの意地の悪いのは、生まれつきと違うて、病というもの。さる所に名医があった。この病気を治すには灸でもなく鍼でもない。ただ一色だけ奇妙な薬がある。その薬の伝授をうけておる。治療してみる心ありや。調合してやろうか。こ
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の薬を用いるうちは、決して病人に腹を立てさせちゃいかん。ちょっとでも、気を立てさせたら、この薬は毒に変わる。どんなに打たれようが、叩かれようが機嫌を取ること。寂しそうに見える時は、お酒でも召し上がればと気を遣うこと。まだまだ秘伝は沢山あるが、またこの次教えようと言って薬をくれた。お話のように姑の心を和らげるように努めた。朝は鳥の鳴かぬ先に起き、夜は遅うまで糸を紡いで、その薬が毒に変わらぬように仕事に励んだ。ところが四,五日たち、七日、十日とたつうちに婆さんも優しくなってきおった』という半兵衛の話。さあ、それからじゃこの嫁は、とてもようやった。鬼婆の心を和らげるように気を遣い、励みに励んだのじゃ。そうこうするうちに、さきの半兵衛の話じゃないが、この嫁はいい嫁だと思うようになった。そしてだんだん可愛がるように変わったのじゃ。とうとう鬼婆の心の柔和な仏心と変わり仏婆さんといわれるようになった。それで今も達者でおるげな。
心ひとつで丸うなる。笑顔で努めるのじゃ。笑顔では打たれもすまい。早う帰って姑に心から尽くすのじゃ」
その次は、誰じゃ。(第二十話)
(望みをかなえてくれる神や仏はないものかと、先生を訪ねる)
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「はい私は将来に望みある身でございますが、さてどこかの神様、または仏様に願をかけたいのですが、どこがいいでしょうか」
「心に誠があればいいのじゃ。誠の道にかなっていれば、祈らんでも神や仏は守ってくれておる。お祈りしたから守る、祈らないから守れんというように神には隔てる心はないもんじゃ。人の心が、神を隔てておるのじゃ。誠の道という正しい道がある。その道をまっすぐに行かず、道ならぬ道を行くから無量の苦しみが、その身を苦しめるのじゃ。これも自分で招いた災いというもの。神は正直の頭に宿ると聞いておるが、その通りじゃ。正直な人の頭を選んで宿るように思う
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人があるようじゃが、そうではないぞ。目で見たり、耳で聞いたり、味を知ることまで神は宿っておられるのじゃ。神の宿っておられることも知らず、侮ったり不信に思う時は、視れども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味が分からんものだ。昔、枇杷を食べた人が、その種が大きいのを愁いて清水に詣で『枇杷の種をなからしめ給え』と観世音に祈願したそうじゃ。これを聞いた人は、馬鹿なやつじゃと笑った。人間の日々の願いも、みんなその通り、枇杷の種と同然のこと。枇杷の種であることを知らないで、今日の命で明日のことを願ったり、わが身を慎まないで災いのこないように願ったり、養生しないで、無病を願ったり、顔の醜いのを恥じずに、この恋をかなえ給えと祈ったりしておる。
これらは、みんな枇杷の種といっしょじゃ。朝ごとに神棚に向かって、顔をしかめ、喉をかすり『富貴繁盛、家内安全、悪事災難を払い給え、清め給え』と言い並べて、祈るばかりが祈りではないぞ。心に誠さえあれば、祈らんでも鶴は千年、亀は万年、枇杷は枇杷の味、梅は梅の味、ワサビはワサビ、山椒は山椒じゃ。万物それぞれ神は宿っておるのじゃ。まして、人間は万物の霊長という。私心、私物を払い給え、清め給えじゃ」
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その次は、誰じゃ。(第二十一話)
(金銭のことで悩む友人を見て、どのように励ましたらよいかと先生を訪ねる)
「はい、友人が、このごろ金の出入りについて、昼夜となく悩んでいますが、どのように言ってやればよいかと困っています」
「銭、金ばかりを宝と思い、その宝に縛られて、命を縮める人が多いのう。命を縮める宝なら、宝のない方がましじゃろう。真の宝というものは、そんなもんじゃない。それは、人が持っている性根玉じゃ。性根玉こそ、真の宝じゃ。自分の
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勝手や都合が悪いときには、この性根玉に疵をつけ、その疵を疵と知らずに、銭、金に目がいっておる。そういう時に性根玉も光を失ってしまうのじゃ。玉磨かざれば光なしとはこのこと。性根玉こそ、日々に磨き、また次の日も磨かなあかんぞ。古語のいう『金玉を宝とせず、忠信を以て宝となす。汝、玉を以って宝となす。我は貪らざるを以って宝となす』。欲しがって飽くことを知らず。何でも欲ばかりに目がくらむでないぞ。性根玉こそ私心を去って磨くのじゃ」
その次は、誰じゃ。(第二十二話)
(弟の世話に困り抜いて、どうしたらよいものかと先生を訪ねる)
「はい、厄介者の弟に、ほとく手をやいておりますが、どのようにすればよろしいか、教えて頂きたいのです」
-以下、次回-
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