賣卜先生糠俵(原文、読み下し文、現代語訳)
第十六話〜第十八話
(2010年1月4日寄稿の第十三話〜第十五話に続いて、第十六話〜第十八話を寄稿します) |
飯塚修三
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前々回から、翻刻文と現代語訳、及び、現代語訳に付いている挿絵のみの掲載になっています。原文及び原著挿絵の写真版はファイル容量の関係で省略させて頂きます。申し訳ありません−編集者。
(現代語訳だけをお読みいただく場合はここをクリックしてください)
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其次は誰じゃ (第十六話)
渡世に追れ。學文いたす餘力なく。文盲なる私。かゝる
一文不知にても。道にかなふ行ひありや。御考下さる
べし。翁の曰。孝行也。論語曰。君子務本。本立道生。
孝弟也者。其為仁之本歟。たとへ一文不知なり共。文盲に
孝行盡さば。是を君子の人とも。學びたる人とも云め。
文章を工みに書き。詩を達者に作るばかりを學者
とは不言。産業を缺き。米銭を費し。學文して
何の爲ぞ。万巻の書を闇記ても。父兄に孝弟なら
ざる人は。一文不知の孝子には劣らずや。或人語て曰。
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我舊里に孝子あり。名は網家何某老母に仕て至れり
盡せり。我見る處を以て。其一二を語らん。夏の日の暑
には。屋上に水を洒ぎて。老を涼しめ。冬の寒夜は
裾に臥て足を暖め。家業の外は一寸も内をいでず
老母の傍に問慰む。其下の町に頼寺あり。法談ある
毎には。老母を負て参詣し。亦負て下向す。年四十
を過る迄妻を不娶。孝の衰ん事を恐れてとなり
老母死て後。初て娶。今は男子二人を持てり。或とき
孝子外より歸り。庭の濡たるを見て。其妻にとふ。
妻小兒の尿なりと答ふ。夫の曰。親の譲り給しこの
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屋敷。我倅の小便にて如此汚す事。恐れあり
勿躰なしと已來を禁め。其土を堀り。他の土を入
替ぬ。衣類又如此親の身に觸れ給し物は恐あり
とて。子共は勿論自身も不着。施物にやなりぬらん
或日。我問て曰。足下の孝心。一郷に亦類ひなし。何れの
師に學て如此や。孝子恥る色有て曰。孝行は中々
我等ごときの可及事に非ず。身躰髪膚。皆父母
の賜なり。其身躰髪膚。皆父母の爲に盡し終り
ても。もとく也。其より上の孝行を盡さゞれば
孝行にてはあるまじと。流涕して又曰。老母
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在す内には我に代りて仕る者なし。故に産業の
外には内を不出。何の餘力ありて師に仕る事を
得ん。今に至てかたのごとく。不學文盲なりと
語りぬと語りぬ。是等の人は雖曰未學。必學たる
人に勝れりとや云はん
其次は誰じゃ (第十七話)
近年は昔しと違ひ。時節が惡うて渡世しがたし。
何ぞ能身過有まじきや。御考給はるべし
翁空うそ吹て。海士のかる藻に住虫の我からと
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ねをこそなかめ世をは恨じ。これ御客。時節が惡うて
世が渡りにくいの。身過が出来ぬのとは。冥加知らずの
いふ事なり。泰平の御代に生れ合。何ひとつ不
自由になき儘に。飽まで食ひ。暖に衣。身の分限
をわきまへず。奢に驕り重る故。身過の出来ぬ而巳
ならず。人の身過の害をなす。それぞれの分限を知り少
も奢りがましからで。己が家業を本とせば。今この
御代の有難さ。などか渡世のかたからん兎や角いふ
は皆分限を知らざる也。亂世の悲みを知らざる故かゝる
御治世の安楽なるを。安楽なりとも思はず。其安楽
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なるを。安楽なりとも思はざるは。長く大病本復
して。本復の祝ひする人はあれど。病ざる祝ひを
祝ふ人なきが如き歟。又途中にて日を暮し。闇の
夜に路を失ひ。如何共せんかたなき時。思ひがけなく
人有て。堤燈を貸してくれなば。其時の嬉しさはいつ
までも忘れず。折節には思ひも出し。云ひも出して
悦べども。日々照し給ふ天道の事は。小挑燈ほどにも
思はず。自身一分の小堤燈は悦べども廣大無邊の
天恩。國恩をば。左程にも悦ばざるは冥加なき事に
非ずや。しかのみならず。己が勝手の惡きとては。降の
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照の。長きの短の。何の角のと。役にも立ぬ寝言
をいふ。去とては目を覺し給へ
其次は誰じゃ (第十八話)
拙者生得短氣にて腹立ときは迹さき見ず
怒り罵り。科なき諸道具を投はうり。杖棒を
振上たり。拳に息を吹かけたり。燃立ときは火に
入るを知らざれ共。そろく短氣しづまればその
後悔亦甚し。後悔も我。短氣も我。後悔する
短氣ならば發さぬが能といふ人あればおれが
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發し度て發す短氣歟。生質なれば是非なしと
また短氣發る。是にも醫者の有べきや。御考
給はるべし。翁の曰阿房に貼る藥はなけれど。汝は
少し脉がある。雖下愚道心なき事不能後悔さも
あるべし。去ながら。短氣を生れ付などゝは。付よう
藥も無い一言。生質の短氣ならば今爰へ出して見
せよ。出まいがな。いや爰な内廣がりの外狭り。短氣
は本氣儘といふ病也。上へ向ては短氣出まい。人に
よって發り。人によって發らざる短氣が生れ付
なりと捨置ば。病に病重ぬべし。もし隣の
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小兒を懐き膝へ尿かけられても。汝又短氣が
發る歟。曰否。相人無我なる故短氣不出。また問
屋根板風に吹散て。小鬢先に疵付なば。其れ如何。
屋根板に心なき故。我亦腹の立事なし。然らば何ぞ
無我無心にはならざるぞ。短氣者肘を張り額に
筋立て曰。翁のをしへ入ほがなり。其無我無心は
人に腹を立させまじきをしへならずや。我問處左に
あらず。腹の立ざる教を聞。翁笑て曰。まづ人に
腹を立てさせざる修行せよ。是短氣を治す
妙劑也。もし無我無心の短氣。無我無心の
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腹立ならば何んぼなりとも出次第出次第
其次は誰じゃ (第十九話)
私は田舎者。姑に憎まれて家出いたし。尼にも
成ふ歟。いっそ死んでも仕廻ふかと。取つ置つ。先
占て見て下さりませ。翁算木を投て曰。船の
危を畏れて水に投る者のごとし。甚惡い。今死
では修羅道へまつ逆ま。たとへ尼になったりとて。
世を恨ての尼なれば。是もまた修羅の種。あゝ
若は能がしどが無い。尼に成にも及ばず。死ぬるには
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現代語訳第十六話〜第十八話、挿絵は父・重三
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その次は、誰じゃ。(第十六話)
(無学なる故に、自信を失い今後どのように進むべきかと先生を訪ねる)
「はい、毎日の暮らしに追われ、学問もできず文盲でございますが、こんな私でも道にかなう行いができるでしょうか」
「できるとも、立派にできる。孝行をするのじゃ。論語に曰
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く
『君子務本。本立道生。孝弟也者。其為仁之本乎。』たとえ一文も読めず不知であっても、孝行を尽くせば、これを君子の人といい、本当に学んだ人ともいう。文や詩をどんなにうまく作っても、真の学者とは言わんのじゃ。仕事に精出さず、金銭を使って学問しても何になることやら。万巻の書をそらんじても、親兄弟に孝悌でない者は、無学、不知の孝子に劣るということ。
ある人の話に『自分の郷里に孝子がいた。名を網屋何某という。老婆に仕えて、至れり尽くせりの孝行を尽くす。夏の
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暑さには、屋上に水を注いで涼しさを工夫し、冬の寒い夜は足元を暖め、家業のほかは家を出ないで、老婆を慰めるといった具合。その下の町の寺に法談がある時は老母を背におうて参る。終わったら背におうてかえる。年四十を過ぎるまで妻を娶らず、孝行を尽くした』ということじゃ。
身体髪膚、みな父母の賜物なりと孝経にあるが、孝行を尽くしても尽くしても限りはないものじゃ。ところで無学文盲というが、こんな道はどうじゃな。しっかり励むがよい」
その次は、誰じゃ。(第十七話)
(このごろの、世相を憂い、世渡りに悩み抜いて、先生を訪ねた)
「はい、どうもこの節は世相が悪く、私は暮らしがどうもうまくいきませんので、どのようにしたら良いかと思いまして」
「時節が悪い、社会が悪い、世が渡りにくいの、贅沢ができないのと嘆くのは、冥加知らずということじゃ。何一つ不自由のない泰平の御代に生まれ、思うものを食べ、暖かい衣服をまとい、自分の分限知らずと言いたいところじゃ。奢りに驕りが重なり、身分の過ぎたことばかり考えておる。少しは、それぞれの分限をわきまえ、奢りなんかちっとも思わず、自
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分の家業に精を出すべき。御代のありがたさも分かり、渡世の難しさの何というかも分かる。乱世の苦しみや悲しみを知らんから、この世の安楽であることを、安楽じゃと思わず暮らす人は、例えば長い大病で苦しみやっと全快して、全快して全快祝いをする者は多いが、元気でいる者が、健康を感謝して祝う人がないのと同じ様なものじゃ。また、闇夜に道を失い、どうしようもなく困っている時に、思いがけなく人に出会い、提灯を貸してもらったら、その時の感激はいとまでも忘れずに、時々思い出し、言い出して喜んだりするが、日々照らしている太陽のことは小提灯ほどにも思ってはいまい。
そんなもんじゃから、天の恵み、自然の恩など、さほどに喜んじゃいないだろう。自分の勝手ばかりで、やれ降るの、 |
照るの、日が長いの、短いのと役にも立たぬ寝言ばかりになろのじゃ。よく考え直して、世相が悪いの、世渡りが難しいのと言わず、せっせと本分を尽くすがいい」
その次は、誰じゃ。(第十八話)
(短気者が何か悪い癖を治したいものと先生を訪ねる)
「はい、私は生まれつき短気者で、自分ながらどうしたものかと思案しております。カッと腹が立つと、もう後先もなく、口汚く罵り、八つ当たりに諸道具を投げてしまいます。棒を取って、振り上げたり、拳に息を吹っかけて、言葉もいっそう荒々しくなってしまいます。そろく短気が静まりますと、やれしまったと後悔いたします。後から後悔するような短気なら、起こさなきゃいいと他人は言いますが、さてこれは自分の生まれつきのもので是非もないのだと言ってくれた人にまた短気を起こすという始末。こんな短気を治す医者がありましょうか」
「馬鹿に付ける薬はないもんじゃ。けど、お前さんは少し脈がありそうじゃ。『下愚と雖も、道心無きこと能わず』という。後悔することは、道心があるからのこと。お前さんは短気を生まれつきのように思うとるが、付けるも薬がない一言じゃ。生まれつきの短気なら、今ここへ出して見せろ。さあ、出すがいい。出せまいが。短気の元は気ままという病じゃ。
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人によって起こり、人によって起こらぬ短気を生まれつきじゃと言うて放っておけば、病は段々と重くなるもんじゃ。もし、隣の子供を抱いておって、オシッコをされたらどうする。お前さんは短気が起こるか。相手が無邪気な童心なら短気は起こるまい。また、屋根板が風に吹かれて、不意に飛んで額に当たって怪我をしたらどうじゃ。屋根板には心がないから、腹も立つまい。お前さんも、もっと無我無心になったらどうじゃな」
「無我無心というて、人に腹を立てさせまいという教えです
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か。それより、腹の立たない教えを詳しく聞かせてください」
「あははは。お前さん、それじゃ、ひとに腹を立てさせないように修行しなされ。相手にも腹を立てさせないこと、これが短気を治す妙薬というもんじゃ。お前さん、自分自身が無我無心となって、相手にも笑顔で接するというもんじゃ、笑顔でな」
その次は、誰じゃ。(第十九話)
(姑との折り合いが面白くなく家出した若い嫁が先生を訪ねる)
「はい、私は田舎者でございます。姑に憎まれ家出してきました。尼さんになろうか、死んだほうがいいのかと迷うております」
「船が危ないと恐れて、水に身を投げるの譬えじゃ。尼になったとて、世を恨んでの尼なら修羅の理というもの。まして、死んでしまえば修羅道へまっさかささまじゃ。尼になるには及ぶまい。といって、死ぬのはなお及ばぬというものじゃ。心ひとつで、つい丸うなる。ここによく似た話がある。仙寿村の花車婆というてな、そりゃ近郷近在でも有名な姑がいた。年は七十、歯はないけれど、嫁をかじること煎餅の如しというほどで、鬼婆というあだ名がついておった。とうとう三人かじり出して、今の嫁は四人目じゃ。この嫁は、とって
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