ダーウィンより40年も前に進化論を唱えた心学者・鎌田柳泓
.2008.08.18
井上宏

. チャールズ・ダーウィンより、40年以上も前に、独自に進化論を唱えた日本人がいた。石門心学者・鎌田柳泓(かまたりゅうおう)である。これは、一般にはそれほど知られているとは言えない。しかし、知る人ぞ知る。ネット上でも関係する記述が散見される。

 私がそのことに改めて興味を持ったのは3年前、仕事を引退し石門心学の本を集中して読み出した時である。実は柳泓の進化論については、以前、山本七平の「勤勉の哲学」などを読んで知っていた。しかし、蘭学の知識などを援用したのだろうと思い込み、さして驚かなかった。

 ところが、岩波の日本思想体系「石門心学」で、その進化論が唱えられている鎌田柳泓の原著「心学奥の桟」を読み、序文で、その本が文政元年(1818年)以前に「究理緒言」としてまとめられていたものの改題であることを知って驚いた。ダーウィンの「種の起源」が発刊されたのは1859年であるから、実に40年以上前である。

 では、柳泓はどのようにして進化論を考え出したのだろうか、また、進化論は柳泓の心学の中でどんな位置を占めるのかと疑問に思い、調べてみた。

 その結果、柳泓の進化論は、ヨーロッパの進化論の流れとは関係なく、彼の医者としての科学的な観察と朱子学の格物致知によるものであり、また、この進化論の考え方は彼の心学思想にとって骨格の一つとして欠かせないものであるとの考えに至ったので、以下に述べたい。

<鎌田柳泓と、進化論の要旨>
 鎌田柳泓(1754−1821)は、紀州湯浅の人、医者であり心学者である鎌田一窓の養子として育ち、彼自身も医者であり心学者であった。心学の門流の中では、道話を主体とする手島堵庵・中沢道二の流れとは異なり、梅岩の理論的な面を継ぎ、「心学奥の桟」の他、「朱学弁」「心学五則」「理学秘訣」などを著している。後世に於いても、その哲学的な面のみでなく、科学者としての面も高く評価され、日本大学の心理学科を創設した渡邊徹博士は柳泓を、我が国における最初の経験的心理学者であると評している。我が心学明誠舎にも度々講義に来て、縁が深い。

 「心学奥の桟」は、柳泓没後の文政五年(1822年)刊。その中で進化論は「一種の草木変じて千草万木となり、一種の禽獣虫魚変じて千万種の禽獣虫魚となるの説」という章で説かれている。

 松が土地の異なることにより変化して、種々の形状をなすこと、朝顔が浪華の地で栽培され数百種となっていることなどから、「是を以て推すにおよそ天下にあらゆる千草万木みな一種の植物より変化し出せりというも可なり」と言う。さらに、犬をかけ合わせることにより様々な種類を作り出す例などを説明し、「これを以てみれば、天下の生物・有情非情ともに、みな一種より散じて万種となる者なるべし。人身の如きも其の初め、ただ禽獣胎中より展転変化して生じ来たるものなるべし。ただし、人は万物の中にて最も貴きものなれば、その生ずること、最も後にあるべし。なお又、その至りを論ぜば、唯一虚の中より天地・日月・星宿・水火・禽獣・虫魚・草木・人類まで変化し来たる者なるべし」と説いている。

 環境による生物の世代を越えた変化と多様化を説き、まさに進化論である。また、後半部分など、まるでビッグバンから人類の誕生までを簡潔に述べた文章のようである。

<柳泓の進化論はヨーロッパ伝来か?>
 生物学史家・八杉龍一は「生命論と進化思想」(岩波書店、1984年)で、柳泓「心学奥の桟」の進化論に触れ、「記述全体から見て、そのもとはヨーロッパから伝来した知識にあることがほとんどあきらかだ」と断定した。ヨーロッパではチャールズ・ダーウィンの祖父エラズマズ・ダーウィンが「ズーノミア」(1796年)で、フランスのラマルクが「動物哲学」(1809年)で進化思想を発表していた。八杉が断定するぐらい、柳泓の説と彼らの説が似ているということだろう。

 しかし、八杉は、前掲書3年後出版のピーター・J・ボウラー「進化思想の歴史」(朝日新聞社刊、1987年)の解説でまた、柳泓の進化論に触れ、「その思想は直接的には、(祖父)エラズマス・ダーウィン、ラマルク、あるいは他の先駆者から蘭医書を通じてはいったことが、まず考えられる。だがそれと思われる蘭書は発見されていないという」とトーンダウンしている。

 私は柳泓の進化論は、ヨーロッパ起源ではないと考えている。松永俊男「ダーウィン前夜の進化論争」(名古屋大学出版会、2005年)によると、エラズマス・ダーウィンの進化論は進化論争に余り大きな影響を与えず、むしろラマルク進化論を紹介したライエルの「地質学原理第二巻」(1832年)を契機にキリスト教信仰との関係で大論争を引き起こしたとのことである。

 つまり、ヨーロッパで進化論争が盛んになったのは、「心学奥の桟」出版後のことである。ヨーロッパで余り話題になっていないものが、それほど早く、日本に紹介され、蘭学者でもない柳泓の目に触れるということは殆ど考えられない。柳泓の進化論がヨーロッパの進化論と無関係であることは、ほぼ明らかである。

<柳泓は進化論を如何に考え出したか>
 柳泓の進化論が考え出される前提として、まず、東洋思想に於いては人間だけが特別な存在という訳ではなく、動植物皆同じ生命を持ち変化していくという、進化論を受け入れやすい考え方を持っていることが挙げられる。

 仏教の輪廻思想では、この世で人間であっても来世では蚊であるかも知れない。老荘思想では、荘子外編第十八で、「いったい万物はみな同一の種子から生じて次々に変化転生してゆき、またもとの種子に帰ってゆく。というのが、この種子には『幾』すなわち万物を生成する微妙なはたらきがあり、この微妙なはたらきをもつ種子が水分を含むとケイとなり、(中略)この青寧という虫は『程』すなわち豹を生み、豹は馬を生み、馬は人間を生み、人間はまたもとの種子の微妙なはたらきのなかに帰ってゆく。かくて万物はみな、種子の微妙なはたらきのなかから生まれでて、その微妙なはたらきのなかにみな帰ってゆくのである」(福永光司、「荘子外編中」、朝日新聞社、1978年)という記述がある。

 この生物の変化転生という思想を背景に、柳泓は、朱子学の学問の方法である「格物致知」を、医師・科学者の目で万物を観察・思索することにより実践した結果、進化論を生み出したと私は考える。

 朱子学では、「格物致知」の「格物」を物に格る(=至る)とし、「致知ハ格物ニアリ」というのは、吾の知を致そう(完成しよう)と思うならば、物(=事・物)に即してその(物)の理を窮めなくてはならぬ、という意味であるとする。(島田虔次、「朱子学と陽明学」、岩波新書、2005年)

 柳泓は、諸国の松の形状を観察し、園芸作物や家畜の交配を観察した。また、医者として動物の胎児の観察もあったであろう。それらから思索して、動植物の進化を確信した。まさに朱子学の「格物致知」を実行したのである。

 ちなみに、陽明学の「格物致知」の解釈は朱子学とは異なる。朱子が格を「至」と解釈したのに対して、陽明はこれを「正(ただす)」と解釈する。「物」とは朱子では外物も内物(心)も含んでいるのに対し、陽明では、意の在る所・内なる心である。従って、格物致知とは、意の発動を正すことによって良知を実現することだ。王陽明がこのような解釈に至ったのは、朱子の格物致知を実行するため、庭先の竹(外物)を格物しようとして果たせず、七日でノイローゼになってしまったことが契機であるという。(前掲書)。そうだとすれば、陽明が格物の方法を誤ったことが陽明学の誕生につながったことになると私は思う。(もちろん、その結果としての陽明学の価値を云々するつもりはない)。

<進化論が柳泓の心学思想に持つ意味>
 柳泓が進化論を説く「心学奥の桟」を通読すると、得てして俗信・迷信・欲心に惑わされやすい世の人々に対し、世の中のことには全て「理」があるので、その理を悟り、理に則った生活をするべきであると説こうとしているのが分かる。
 この意図の下に、柳泓はまず上巻第一章「天地万物は皆一針眼の虚中に其理を含蔵して出来たるの説」の中で、動物の卵や、植物の芽のような小さな物の中にも、成長した動植物と同じ性情が含まれている。また、小さな石や土砂の中にも、その土壌の特質が含まれているように、至細の中に至大の理を含蔵していることを示す。

 そして第二章で今まで述べてきた進化論を説くのである。私は全体の中でこの章の持つ意味は、宇宙の始まりから、進化の極として最も精細な人間の出現に至る、長い時間軸の全てを通して理が貫徹していることを示したことであると考える。

 第一章で、今という時点における至細から至大までの理の貫徹を説き、第二章で、歴史軸における一種から万種への進化を通しての理の貫徹を説く、そして、以下の章で次々と世の中の不思議と思われる事象に潜む理を解き明かし、最後には「鬼神有無の説」で神仏をも理で解き明かす、という構成である。

 このように、「心学奥の桟」にとって、ひいては柳泓の心学思想にとって、進化論は欠かせない要素となっていると考えられる。

以上、鎌田柳泓の進化論について述べたが、柳泓は魅力ある思想家である。この他にも現代から見て採り上げるべき所説がいくつもあるので、機会があればまた書いてみたい。
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