「賣卜先生糠俵・後編」紹介第14回
第二十六話・跋(読み下し文、現代語訳) |
恩田満
2010.06.18
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今回は、いよいよ「賣卜先生糠俵・後編」の最終回、第二十六話と跋(ばつ)をお届けします。
永らくのご愛読、有り難うございました。
第4回から、サーバー容量の関係等により、原文・挿絵の写真版は省略し、読み下し文と現代語訳のみの紹介とさせていただいています。 |
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* 前回迄同様、詳しい注釈、および解説については、筆者下記ホームページ内の 「日本の古典」 の項をご参照いただきたいと思います。
(読み下し文の数字を振っている語句について、注釈を付けています)。
http://onda.frontierseminar.com/
* 本文および注釈・解説などを引用あるいは転載なさる場合は、必ず事前に筆者の了解を得て下さい。
なお、底本は、「心学明誠舎」 舎員の飯塚修三氏の蔵書から複写したものを使用しています。
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近世文書に馴染みのない方は、現代語訳だけをお読みいただいても、心学道話の面白さを味わっていただけます。下記をクリックしてください。(編集者)
【 現代語訳 】 第二十六話→ 跋(ばつ)
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第二十六話
①永き日は、ながき油断に暮れの鐘。翁、夢覚め、茫然として曰く、「②むかし荘周、夢に胡蝶となる。栩栩然として胡蝶也。荘子夢に胡蝶となる歟、胡蝶の夢荘子となるか。荘子も夢、胡蝶も夢、翁もまた夢なる歟。③夢の内に夢なる事を知らずして夢に遊ぶ。覚めて初めて夢なることを知る。如斯いふも又夢なる歟。夢の内なれば、夢なる事を知らずして夢に遊ぶ歟。覚めて又夢なることを初めて知らんか。過ぎにし事を夢と云はば、けふも又明日の夢、今も後の夢ならん。夢も夢、覚むるも夢、④死も夢、生も夢、⑤横槌も夢、竪臼も夢。
⑥夢々と口にはいへど悟めやらで⑦夢にゆめ見てあそぶ夢助」。
虚白斎 著
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【第二十六話 現代語訳】
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春の長い一日は、これまで長きにわたってさまざまな油断に明け暮れしてきたが、夕暮れ時の鐘の音を聞いて、夢から覚めた翁は茫然として、「むかし荘周は、自分が蝶になった夢を見た。それはひらひらと飛ぶ蝶でいかにものびのびとしている。荘子が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で荘子になったのかわからない。荘子も夢、蝶も夢、この翁もまた夢の中なのか。夢の中で夢であることに気付かないで夢の中で遊んでいる。覚めて始めてそれが夢であったことを知る。このように言うこともまた夢なのか。夢の中にいるからこそ、夢であることがわからないで夢の中で遊ぶのか。(それとも)覚めてまた夢であることを初めて知るのだろうか。過ぎてしまったことを夢だというならば、今日もまた明日の夢、今もまた後の夢であろう。夢も夢、覚めるのも夢、死も夢、生も夢、横槌も夢、竪臼も夢なのだ。
この世は夢だ夢だと口では言うが悟りきれないでいる。このような人を夢の中で夢を見て遊ぶ夢助というのだ」と語ったのだった。
虚白斎 著す
(跋・現代語訳へ→)
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跋
此の草子の①畢竟は、人を善にすゝむるにあり。②是非の論は我是を知らず。今や翁の③糠俵をふたゝび振るふは、④初めの麁ならむをおもひ、後の密なるを以て、⑤倍人心の垢をさらむとす。⑥世間沙汰、簸揚の類に異なり、所謂⑦両端を叩いて竭すといふものならし。予が又⑧尻馬にのりて、かなはぬ筆を馳せるは、偏に⑨例の多訳を尽くすといふものにやあらむ。⑩福の神の御託に、
⑪善き事に心をつくし行へよよろづにあしきたはけつくすな
堵庵
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【跋 現代語訳】
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この草子の最終的な目的は、人を善に向かわせることにある。(その内容が)良いのか悪いのかについてのことは私にはまったくわからない。今になって(虚白斎)翁が『売卜先生糠俵』という名の作品を再び刊行するのは、初めの作品が大まかであったことを反省し、後の作品が緻密な内容であることを以て、さらにいっそう人の心の垢を落とそうとするのであろう。世間のうわさや有名無実な話の類とは違って、いわゆる(人々の)質問の隅々まで全部を取り上げて(それらに)十分に答えてあげるというようなものであるらしい。私がまた分別もなく調子に乗って、力もないのに(推薦の)筆を走らせるのは、ただいつものように、多くのわけを挙げてたわけたことを言うという類のものであろうか。(ところで)福の神のお告げに(次のような言葉があった)
善いことに心を込めてそれを自ら実践せよ。何事においてもばかげた悪い行いをしてはならぬぞ
手島堵庵
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