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春の長い一日は、これまで長きにわたってさまざまな油断に明け暮れしてきたが、夕暮れ時の鐘の音を聞いて、夢から覚めた翁は茫然として、「むかし荘周は、自分が蝶になった夢を見た。それはひらひらと飛ぶ蝶でいかにものびのびとしている。荘子が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で荘子になったのかわからない。荘子も夢、蝶も夢、この翁もまた夢の中なのか。夢の中で夢であることに気付かないで夢の中で遊んでいる。覚めて始めてそれが夢であったことを知る。このように言うこともまた夢なのか。夢の中にいるからこそ、夢であることがわからないで夢の中で遊ぶのか。(それとも)覚めてまた夢であることを初めて知るのだろうか。過ぎてしまったことを夢だというならば、今日もまた明日の夢、今もまた後の夢であろう。夢も夢、覚めるのも夢、死も夢、生も夢、横槌も夢、竪臼も夢なのだ。 この世は夢だ夢だと口では言うが悟りきれないでいる。このような人を夢の中で夢を見て遊ぶ夢助というのだ」と語ったのだった。 虚白斎 著す |
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跋 此の草子の①畢竟は、人を善にすゝむるにあり。②是非の論は我是を知らず。今や翁の③糠俵をふたゝび振るふは、④初めの麁ならむをおもひ、後の密なるを以て、⑤倍人心の垢をさらむとす。⑥世間沙汰、簸揚の類に異なり、所謂⑦両端を叩いて竭すといふものならし。予が又⑧尻馬にのりて、かなはぬ筆を馳せるは、偏に⑨例の多訳を尽くすといふものにやあらむ。⑩福の神の御託に、 ⑪善き事に心をつくし行へよよろづにあしきたはけつくすな
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この草子の最終的な目的は、人を善に向かわせることにある。(その内容が)良いのか悪いのかについてのことは私にはまったくわからない。今になって(虚白斎)翁が『売卜先生糠俵』という名の作品を再び刊行するのは、初めの作品が大まかであったことを反省し、後の作品が緻密な内容であることを以て、さらにいっそう人の心の垢を落とそうとするのであろう。世間のうわさや有名無実な話の類とは違って、いわゆる(人々の)質問の隅々まで全部を取り上げて(それらに)十分に答えてあげるというようなものであるらしい。私がまた分別もなく調子に乗って、力もないのに(推薦の)筆を走らせるのは、ただいつものように、多くのわけを挙げてたわけたことを言うという類のものであろうか。(ところで)福の神のお告げに(次のような言葉があった) 善いことに心を込めてそれを自ら実践せよ。何事においてもばかげた悪い行いをしてはならぬぞ 手島堵庵 |
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