恩師竹中先生の教えを伝えて

−教職定年退職10年に思う−

舎員  藤野 孝夫  .

2015.04.06   

はじめに

 今年(平成27年)は平穏に推移しているような気がするが、最近は大人のトラブルが目立つ。失敗は若者の特権であり、失敗をして「若気の、いたり」と頭を掻きながら小さくなってボソッと話すようなことを、50歳代の大人が、しかも世の中で地位を占めている入る人たちの失敗が後を絶たない。校長先生や、スター歌手の麻薬事件である。いずれも50代と分別盛り。また、我が離島隠岐でも知らない者はいない号泣兵庫県議員も47歳である。個人情報漏洩の犯人も40歳、岡山の小学生監禁男も50歳という。私が、40歳代に教えた勘定になる。振り返って見ると、私は1968年に教員になり、2004年まで商業教育に携わってきた。教えた生徒の年齢は、上は60歳になる、若い処では20代後半にあたる。この生徒たちにどのようにかかわってきたのかを思い出して、教育の在るべき姿を、反省も込めて、考えて見たいと思い立った。

新米教師時代の思い出

 昭和43年(1968年)25歳で、大阪市立扇町商業高等学校(現大阪市立扇町総合高等学校)が新米教師の赴任校であった。商業高校らしく、教室からはベテランの先生の算盤の読み上げ算の掛け声が、すがすがしく聞こえる朝を懐かしく思い出す。

扇町商業高校の校訓は配慮・誠信・克己であった。実学を重んじ自学自習勤労を求めた。新米の私は生徒に、経済はやりくりであり、それは貨幣で計算される。正直に処理をして嘘の無い仕事を全うすることが実学の実践であると教えた。私の担当は英語と商業であり、英語は一年生。商業は、商業一般・商業法規・文書実務であった。当時は読み書き算盤と、商業計算は珠算が、まだ主流で先生も堂々たるメンバーで教えられていた。珠算検定は特に力を入れて練習をして上級に合格するのとは大いなる喜びであった。卒業後も上級を受験し上級資格に合格すると嬉しい連絡をしてくれる卒業生もいた。

私は、学生時代(現近畿大学経済学部)、恩師の竹中靖一先生が主管をされた茶隴山(さろうざん)道場での、定期的に開かれる心学明誠舎の例会をお手伝いした。その例会は昭和34年から昭和54年の間、大阪長堀の旧住友本邸 茶隴山(さろうざん)道場で開かれ、住友の重鎮田中良雄先生の詩「私は一隅を照らす者でありたい、私の受け持つ一隅がいかにはないみじめなものであっても、いつもほのかに照らしゆきたい」をモットーに、江戸時代の石田梅岩の講話のように卑近な例を引きながら、竹中先生と京都大学の柴田 実先生が、中小企業の経営者などを受講者とするみなさんに、商業道徳の一端や、生活訓話を続けられていた。

そういう雰囲気を見て、商業高校の教員になろうと決意し、教員になった。当時を思い出せば、先輩や同期の仲間達と理念だけでは教育はできないというような議論も懐かしく思い出す。

職業教育で学んだこと

職業教育は、いろいろな場面でおこなわれなければならないが、専門高校では、とりわけ重責がかせられる。工業高校は、製造を通じて 職人気質の中できたえられる。水産・農業は 自然が相手であり、嘘や手抜きは、通用しない厳しい実業精神が培養される。

高校のゆとり教育

1982年(昭和56年)に高校のゆとり教育が実施された。現場は混乱した。分厚い教科書が薄くなった。学ぶ者に、読んで考えるという精神が薄れるような気がした。端的な説明で表面的にはわかったような気がするという所に、落とし穴である。そのゆとり教育も、私が定年を迎える頃は、また、反省期に入っていた。やはり、心に常に余裕があることは大切だが、切磋琢磨するときは、時期を逃さず鍛えるべきである。競争を毛嫌いする向きもあるが、ライバル心を燃やして、向上することを学ばせるべきである。そして、相手を思いやる心はそういった所から生まれてくるものだと思う。競争心から、ねたみが出て、そのねたみがいじめの根源になる。だから、ゆとりある教育が叫ばれたのであるが、ここらでじっくりと考えなおす時期である。

教育への期待

 正月の書初めという事で、今年の初夢と題して作文を綴って見た。 和食に続いて、和の心を世界無形文化遺産へ登録の夢を見た。古来、日本は遣隋使・遣唐使等留学生を派遣し大陸の文化吸収に努め、伝来の漢字もひらかな、カタカナを工夫し和言葉の記録が自由になった。 江戸時代300年の平和が続き、農工業の発展を支える学びの場も充実。藩が経営する会津藩の日新館岡山藩の閑谷学校、松江藩文武館等に加えて、民間にも寺子屋や私塾例えば石田梅岩の開いた心学道場の講話活動等で中国思想、インド哲学、仏教、神道等が、渾然と熟成し、平和社会でこそ活躍できる商人の台頭で、正直・倹約・勤勉、知恵才覚算用、物や人を大事にするもったいないという思想が芽生え、鎖国の環境下独自の和風思想が栄えた。 21世紀の今、これが世界から来る留学生の目にとまり、相手の立場を大切に思いやる精神、日本人も忘れかけている和の心が注目され、世界へ広め世界に平和と幸せを実現せよとのねりが起動という初夢だ。正夢にしたい。

 このように綴って見ると和の心は、いかにも東洋的に思えていた思想は実は日本独自の、独特のものであることが分かる。神道というか、八百万の神を畏れる日本人の心の不思議さの産物であり、誇りだと思う。とにかく他人の失敗に寛大である。さっきまで喧嘩していた相手と仲良しになるのも早い。水に流してという解決の仕方は他の人種では考えられない。この相手をいたわるという精神をどうやって涵養するか、やはり教育の力であると思う。青少年時代に、相手をいたわる気持ちというか、寛容の精神は心の中に育成しておかなければならないと思う。主観的な言い方で恐縮だが教育で可能だと思う。

教育の復権

 若い人の理由無き残虐な殺人が目立つ。「人を殺して見たかった」 空恐ろしい言葉である。未成年で、学校にも職にも就かないでたむろして感情におもむくままに、群れをなして生活している。親も義務教育は終えて一人前として扱って、酒やたばこは、未成年者は法律で禁止されているのを知りながら、人前でなければ、家のなかであれば良いと容認をする。子供からすれば、物分かりのよい都合の良い親である。どういう世界観を持つかは本人の自由であるが、何が正しくて、どこが道理にあわないか、人間として社会で生きていくということはどういうことなのかは、大人が子供を教育しなければならない。  

江戸時代に宮中や武士社会の教育・教養が商人や農民、工人、庶民に広がり日本の儒教や神道の精神をバックボーンにして、仏教などの教えが溶け込み渾然一体となった大和の精神が熟成し、明治政府の教育でそれが西洋文化とも合流して豊かな日本精神が形成されていた。これを敗戦によってこなごなに壊しての戦後教育がなされてきたと思う。寛容で、礼儀正しく、潔い。この日本の精神が忘れられていると思う。正直・倹約・勤勉を根本にすえたしつけや、教育の復権が必要である。道徳教育も、道徳という教科を入れることで実施しようとしているが、どうも自信がうかがえない。命の大切さを教えることが道徳の主眼であると思う。子供の頃、昆虫を殺生したり、犬、猫にいたずらをしたこと今思い出すだけで、すまなかったと反省し、命を大切に、ひいては友を大切にと思いは広がってゆく。

まとめ

 最近、いろいろな分野でたとえば法政大学の田中優子総長の、江戸時代の日本人の到達した文化水準をあなどるなかれの提案にみられるように江戸時代の再評価がみられる。私は、心学こそ日本に定着するべき教育思想であると提言する。私は商業教育に40余年身をおいたが、12年間を島根県立松江商業高等学校に務めた。その校訓は「誠実・質素・勤勉」である。卒業生は、ことあるごとに、これを口にして自己を律してきたと、高齢になられた方も、誇らしく語られるのである。こうゆうことを繰り返し、繰り返し、教師が生徒に言うことによって躾てゆけば、それが日本の道徳教育そのものである。

 さらに最近思うことは、原発の廃炉に伴う日本人のふるまいである。昔の日本人ならば、40年も身をスリ削って発電をして、その電気で地域を支えて、放射能というゴミを生み出した原発を、自分たちの関係の無いところへ処分してしまえという言動しかないことを恥じるだろう。そして、こう言うに違いない。長い間ありがとう。ゆっくりお休み。活躍してくれた40年をかけて安全に後始末して眠れるようにしてあげるよと。その原発が元気に活躍していた40年を、私は教育の場にいて、教師として、人間として生徒に徳とは何かを問い、また自らも探求をして、徳育をするべきであったなあと反省している。竹中先生がよく言われていた「君たち精神的バックボーンを持ちなさいよ」と、私自身生徒に、もっと訴えるべきであったと反省している。正直・質素・勤勉をモットーに誠実に、寛容でいて潔い、そういう日本人復活のために石門心学の研究と普及を祈りつつ拙文を閉じます。(完)  

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