2009年度立命館大学経営管理研究科課題研究論文

 

今日に生き未来に活かす石門心学

― 石田梅岩の経営哲学に学ぶもの ―

 

下田 幸男

 

 

 

序 章

 

 本稿の目的は、石門心学と呼ばれる石田梅岩先生の示す商道を再評価することにより、持続発展する組織の経営哲学を探ることにある。

 1970年代頃からの環境問題への意識の高まりや、企業の不祥事が続く中、CSRCorporate Social Responsibility企業の社会的責任)ということが欧米を中心に盛んに言われるようになった。一方で平成のバブル崩壊や、昨年のサブプライム・ショック[1]を始め、金融・雇用など様々な領域で人々の動揺や経営不信が顕著になっている。現在は、あらためて生産性や利益のみの追求ではなく、持続発展する組織の統合的な原理が求められているといえる。

 筆者は経営塾ともいうべき明誠舎に所属している。享保14年、丹波の小さな農家に生まれ市井の儒学者と呼ばれる石田梅岩[2]先生により初めて京都において講ぜられた学問、いわば人間の心を学ぶわが国独自の教学が、時を経て現代社会においてどのように影響を与え、未来にどう活かし得るかを学ぶものである。政治面での変革期であり同時に社会の価値意識の大きな転換期でもある中で、270年の時を経た現代においても、商売のありかたや企業の社会的責任、さらに人間の倫理の基本を考える上で大きな指針となっている石門心学が、混迷の時代の企業経営の指針として有効であると考えられた。

本稿では、石田梅岩先生の足跡と石門心学について検証し、その指針が現代の経営にどのように活かされ得るかを考察する。

そこではフィールドワークとして石田梅岩生誕の地や、彼の思想に影響を与えたとされる鈴木正三、中江藤樹らの文書をリサーチし、さらに石田梅岩先生の弟子たちにより様々な形で伝えられてきた石門心学が江戸幕藩体制に与えた影響、明治維新や日本の近代化に及ぼした影響などにも触れてゆく。

 なお、筆者の希望により呼称を「石田梅岩先生」および「梅岩先生」とし、盛和塾創設者の稲盛和夫氏について「稲盛先生」と呼ぶこととする。

 

 

第1章   石門心学の意義

 

第1節 現代日本企業における不祥事多発と心学の必要性

 企業によるコンプライアンス違反が増えたといわれる。20071219日付の産経新聞によると、 広報活動を支援するNPO法人「広報駆け込み寺(三隅説夫代表)」の情報として、企業不祥事について実施したアンケート調査の結果を発表した。調査はインターネットを通じて1000人を対象に行ったがそれによると、不祥事が前年に比べて増えたと実感した人の割合は86%にのぼり、最も印象的な不祥事では「食品偽装」との回答が70%でトップを占めている。

また不祥事発覚が増えた要因(複数回答)としては、96%が「内部告発」と回答。「企業からの情報公開」と答えた人は11%だった。勤務する会社の不祥事を知ったときに「内部告発する」と答えた人は58%にのぼった。

内部告発の理由(複数回答)で最も多かったのは「会社の不正を許せないから」が77%。「不正を正すことで会社をよくしたい」との意見も69%を占めた。

「不祥事を起こした企業の商品や株を買うか」との質問には、「企業の対応を見て決める」との冷静な反応が60%を占め、「当分買わない」(22%)「今後一切買わない」(13%)といった割合を大きく上回った。

これらのことから分かるように、消費者が豊富な情報を迅速に得ることができ、多様な価値観で様々な批判力を持つ現代社会においては、個々のリスク対応にとどまらず全社的な謝罪広報を始めとする、統合的な企業の経営姿勢が問われる時代となったのである。

本章では柔軟な、いわゆるストレッチの効いた統合的な経営哲学としての「石門心学」のなりたちを述べてゆくこととする。

 

第2節 石門心学のなりたち

 石門心学(せきもんしんがく)は、日本の江戸時代中期の思想家・石田梅岩先生(1685- 1744)を開祖とする商売を中心とする倫理学・経営哲学の一派のことである。単に、心学ともいう。当初は京都の都市部を中心に広まり、次第に全国の農村部や武士まで普及するようになった。

石田梅岩先生は、京都丹波東懸村(現在の京都府亀岡市東別院町)で生まれた。ごく普通の農家で育ち京都の商家に奉公し、働く傍らで神道・儒教・仏教の三教を学び独自の哲学をもとに石門心学を編み出したとされる。

 後世になって石門心学はいずれかの思想の体系に属しているとか、その発展もしくは変形ではとの見解がしばしばなされてきたが、むしろそれらを止揚したものと筆者はとらえる。商人としての経験から実践を重んじ、静態的な朱子学に飽き足らず動的な陽明学にも通ずると考えられる。

 いわゆる先儒といわれる孔子・老子・荘子、さらに仏教・神道を取り入れ、時には辻立ちまでして教えを説いた。このようにあらゆる教理をこだわりなく取り入れた理由は、ただ実質実践を重んじる商業社会の気風に加え、積極的に外来思想を摂取してきた日本文化の特性が背景にあるとも考えられよう。なお、一般民衆への道話(どうわ)の講釈と心学者たちの修業(会輔)の場となったのが、心学講舎と呼ばれる施設であった。

 

第3節 石田梅岩先生講釈の実際

 2007年、筆者は友人の紀之崎氏とともに先述の石田梅岩先生の生誕地に赴き、子孫といわれる石田二郎氏[3]より梅岩先生自身についてや学舎の現在についてなどを聞かせていただいた。

 亀岡市文化資料館で観た「梅岩講釈の図」では、武士・子どもと母親・町人・医者をはじめ梅岩先生の右側には6人もの女性が座っている様子が描かれている。時は正月であろうか鏡餅が掛け軸の前に置かれている。このようなわけ隔てなく様々な受講生を対象に講釈する姿勢は、従来の朱子学者や国学者には無いことであった[4]。その講釈には儒学の教典のほか徒然草のような古典文学や仏典、神学の書が多彩に用いられた。「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としている。したがって梅岩自身は『性学』といっていたが後の門弟たちによって『心学』の語が普及した。当初は男子のみを対象としていたが、聴講を望む婦女子多く、障子越しの別室にて拝聴を許されたのであった。

 京都堀川で学校を開設したところから堀川学派と呼ばれ、当時の教養人として、また商人のリーダーとして信頼を集めたという。はじめは数人の聴衆だけであったが、数年の間に、梅岩を師と仰ぐ商人達による弟子グループができあがり、梅岩を助けた。梅岩自身もその中からすぐれた後継者を育成していった。

彼の講話については多くの語録が残されているが[5]、代表的な著書としては『都鄙問答』があげられる。その中では商人について「貧欲多く毎々貪ることを所作となす」としながらも、「売利を得るは商人の道なり」とし、商人の売利は君主に奉公して得る武士の禄と同じとしてその正当性を主張している。それは商人とは利益を追求するのみで社会の問題には関心のない卑しい階級と看做されていた当時の世評に挑戦するが如くであった[6]。武士は志をもって国を治め君を正し、志を持たないものは禄を貪っているに等しい。この指針に立てば武士も商人も同じであり、武士が武をもって国を守るように商人は商いをもって国を守ることになるのである。「商人の道といえども何で士農工の道に変わることあらんや」とし、すべての階層の生き方に道があり、孟子の教えも引用してそれは「一つなり」と説いた。

 また陽明学から「人欲の排除と万物一体の仁」の引用により、「利益を追求するものは人欲を持つな」すなわち商売は人欲による行為ではなく道による社会のための行為だと述べた。それについて、「貪欲でいつも貪る仕事をしている商人に無欲を説くのは、まるで猫に鰹の番をさせるようなものではないか」との問いに、「商人の道知らざるものは貪ることをすすめ家を滅ぼす。商人の道を知れば欲心を離れ仁心をもって勉め道に合わせて栄を学問の得とす。」と答え、人欲を排し仁につけば栄えることは学ぶことの当然の結果であるとした[7]

おりしも同時代を生きた西川如見(1648-1724)の『町人袋』[8]においては「人間は根本のところに尊卑あるべき理はなし」と、人品の素養の後天性を主張した。階級制度では町人を四民の下に置く現実を受け入れつつも、「いかなる賤が伏し屋に居ても心は万民の上に伸びんものなり」と精神性を唱え、他方では知足安分を説いてこれを基礎づけた。この点において石門心学の考え方と通ずるものがあろう。時期は梅岩先生が開講した享保14年で、前述のように元禄期に勃興の頂点に立った町人が受難期を迎えたころでもあった。信用に徹する経営を行った商人のみが資本を盾とし、地味堅実な営業をようやく続けることができたという時代背景が見え、加えてそれに耐えうる強靭な道義性が要求されたともいえる。このような時代の要求に、梅岩先生の教説は広く応えたのである[9]

当時の貨幣経済は大きく発展し町人文化もかつてない発展を遂げたが、しかしその状態は不安定で未だ商人・商家の暮らしぶりは浮き沈みが大きく、いきおい小賢しい小欲に囚われ「貪ることを勉めて家を滅ぼす」者も多くいるのが現状であった。こうした中、梅岩先生の石門心学は、彼自身の商家での番頭という経歴や市井の生活から育まれる庶民感覚を内包する教えであり、学者による高踏な講義には無い共感と理解を得て人気を博したこともうなずける。町人の多様な時代の要求を読み取り、既成の思想体系のいずれかに偏することなく「神・儒・仏ともに悟る心は一つなり」とまとめたところが特徴と考える。

朱子学以降の儒学において「心をめぐる修養の営み」を心学と称することがあり、特に同時代の陸承山や明の王守仁(陽明)においては心の働きを重視したことから、「心学」といえば通常は彼らの学派をさすことが多い。また、江戸後期の儒学者であり、昌平校で朱子学を講じた佐藤一斉(1772-1859)の「学」を「心学」と称することもある。一般にはこれらと石田梅岩先生の神道・儒教・仏教を一体とした庶民教育ともいえる石門心学を明確に区別する必要を述べる説もある。筆者としては、むしろ後世の佐藤一斉らが石田梅岩先生の石門心学に大きい影響を受けた可能性を指摘しておきたい。

梅岩先生の儒教では静的な朱子学よりもむしろ動的な陽明学の考えを取り入れており[10]、陽明学では「人欲の排除と万物一体の仁」を主張するが、生きていること自体が欲、草木が茂ること自体が欲であるという考え方では万物に欲なき物はないことになる。いずれも伸びすぎた枝葉を刈り取るように、過ぎたる欲は抑制されねばならない点では共通している。一斉の場合、最終段階で「心」を学ぶ形態は「静座」といわれるものであり、幕府の最高教育機関「昌平」学長という立場からしても梅岩先生の庶民教育とは異なる様相である。

 石門心学が世に受け入れられていった背景には、前述のように経済成長のピークである元禄期の後の停滞期であったことがあげられる。世情の変革期に必ず起こる閉そく感の中でこそ庶民の共感を得ることができた。以下は経営問答の引用である。

     問うて「私の息子は商売より悪所通いに夢中で、私もいいかげんな歳になり、今店に居る番頭たちにしっかり商売を教えさせてと思うのですが…。」

答えていわく「悪所通いも人生の経験のうちで大切だが行き過ぎるとのう。早めに嫁でも貰ったら少しは商いに身を入れるのでは。」

など、人生相談から健康相談までにおよび、時にはパフォーマンスを伴った講義であり、その教えは町民層を超えた広い範囲に広まっていた。とりわけその経済思想は彼の弟子たちによって受け継がれていった。

 

第4節 石門心学の隆盛と経済思想

石門心学における経済思想は、その他の分野と合わせ弟子たちの手によって丁寧に引き継がれていった。そもそも当時は、長らく武士達が依存してきた米中心の経済が次第に金銀による経済すなわち貨幣経済に移行して行った時代で、それまで社会的に低く見られていた商人達の力が、実質的には次第に大きくなり始めていた頃であった。この様な状況の下で、梅岩先生は商人とは何かをたえず自らに問い掛け、商人とは社会に於ける流通経済の担い手であり、その役割は極めて重要である事を強調した。

著書『都鄙問答』の中で、「売物は時の相場により、百目もんめに買いたる物を九十目ならでは売れざることあり。天下の御定の物の外は時々に狂いあり。狂いあるは常なり」と、この時期ですでに自由経済による価格の成立について示し、客の満足の度合いを、商品の品質、サービス、コストに分け、働く人の労働の違いによる、富の生まれる過程をとらえている。これは、梅岩先生の商人としての実践から生まれた経済理論であった。

彼の足跡をいくつかまとめる[11]

 

     石田梅岩先生は武士を「位あるの臣」、商工を「市井の臣」とし、「商人の利」を「武士の俸禄」と例えた。町人の社会的存立の意義を強調し町人のための万丈の気をはいた。

     「倹約の哲学」を説き、これを陽明学の仁と同様に使った。

     門弟である手島堵庵[12]は、日常の売買について、金銀財宝をいかに集めてもそれだけでは外になるだけであり、それをいかに人の為世の為に役立てるかが大事であるとし、経済活動の倫理化にこだわった[13]

     同じく門弟である中沢道二は心学参前舎を江戸に開設し、石門心学を多数の大名や高級武士に伝えた。特に、当時の松平定信に近い大名たちへの教化をはかり、老中に推された本多肥後守が道二の門人となった。

寛政の改革に参画した15名の大名のうち8名が石門心学を修業したが、このことは石門心学の隆盛に絶大な貢献を果たした。

 

第5節 石門心学の栄枯盛衰

 このように天保年代である1830年代に石門心学は最盛期を迎え、その学舎は全国で34藩・180か所にまで広がった。しかし、幕府の体制維持のための教化策の役割を果たした石門心学は現状身分制の維持が最大の目的となり、梅岩や堵庵の力説していた修業・工夫というよりむしろ風俗改善や民風向上を目的とする教化主義が顕になりいわば封建体制の御用学問になってしまった。

 またその時期、関東心学の代表である大島有隣は京都の上河其水と対立し、分裂した。内部の統制力も衰え、世俗的な心学者が輩出し、落語まがいや興味本位の道話が横行した。こういう中にあっても石門心学は政治的な合理化を強め、家臣の忠誠と無私の精神が重要であることを強調する姿勢は変わらず、教えの拡大に努めるとともに幕藩体制の維持にも一役買った。

 石門心学は幕府との密接な関係を持っていた一方で天皇との関係を強調したものであるが、このことは後に民衆の心を新しい天皇親政に向かわせ、明治維新に対する民衆の心の準備をさせたという意義があった。

 

 

第2章   近代日本社会と石門心学

 

第1節 明治維新の政治思想

 明治維新の志は天皇に対する新しい姿勢すなわち尊王思想を生み、一方で国家に対する新しい観念として後々まで影響する「国体」という言葉を生んだ。

 この時代を特徴づける思想として国学と水戸学があったが、国学は中華思想を極端に排し、日本の栄光は天皇が万世一系であることとし、日本の美風といわれるものはすべて特別の教義があるわけではなく、日本人の有する道徳観がつないで来たものとしている。ここでは儒教・仏教も退けられ、国学者の本居宣長(1730-1801)の『古事記』の政治的な意味合いとして中央集権君主制を確立しすべての日本人が天皇に絶対的忠誠を捧げ、将軍家あるいはその他の権力を排することであった。

また、水戸学は水戸光圀が創始者といわれているが、彼の指示で日本の膨大な歴史書である『大日本史』が編纂された。これにつき司馬遼太郎(1923-1996)は、著書『この国のかたち』において「大いなるムダ」と呼んだ。「助さん格さん」で有名な佐々介三郎や安積覚権衛が各地に出向き、天皇の事跡を調査した。水戸学では「尊王攘夷」の言葉に見られるように、朱子学の影響を受けている。実際に水戸学では、国学に見られるような「何事によらず中国を排撃する」ようなことはなかったが、中国道徳[14]を教える一方で、あくまで神道を第一に置き、次々と王朝が変わることや孟子が革命を正当化することを批判している。

 さて、国体の持つ意味とは宗教的実体と政治的実体の融合といえ、日本の宗教思想に特有の2次元的な側面を持ち「宗教的行為=政治的行為」とみなす。このような考え方を具体的に表現したのが吉田松陰(1830-1859)で、彼は水戸学の影響を受けさらに明治維新の指導者に強い影響を与えた。そのような彼は獄中(野間獄)に居た間、陽明学左派の李卓吾(

1527-1602)の『焚書』を読み大変感激したといわれる。こういった数々の新しい思想の台頭から、石門心学は衰退していったとされる。

 たしかに明治維新によって表面上の士農工商の身分制度はなくなったが、日本の近代化の中で経済の占める位置は飛躍的に高まり、石門心学はむしろ商人の道として重要性を持ってきたといえる。

 

第2節 明治以降の商人・経営者と心学的思考

 江戸時代の商人たちの、武家社会での差別に対する怒りなどは、近代における日本の経済の発展の素地として育まれていた。明治維新により旧来の秩序が壊れた時期に、さらに海外との貿易解放が重なり、志を持つ多くの企業家が輩出した。そこでの彼らのバックボーンとしては儒教があった。たとえば渋沢栄一は、『論語と算盤』を著わし、道徳と経済の合一性を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所としており、経済発展で得た利益を社会に還元し利益と倫理を両立させることの大切さを説き、自分自身もその実践を行った。その志を持ちつつ彼は、明治から大正時代にかけ5百社にも上る企業の設立に関わり、「日本の資本主義の父」とも呼ばれた。岩崎弥太郎・安田善次郎とともに動乱期に成功した商人といえる。当時はまだ資本市場が弱く、政治との連動が強い時代の経営者であったが、続く時代での浅野総一郎や松本重太郎になってくると、政治とのつながりは薄れてゆく。徐々に市場経済を重視する企業家が育ち、松下幸之助のように消費者に向けた営業や需要創出、科学技術を応用した経営が打ち出されてゆく。消費者志向の強い小林一三に加え鐘紡の武藤山治などは科学的管理システムを導入し、販路開拓やマーケティングに敏感であった。

 論語が影響を与えた渋沢栄一、昭和に続く経営者では講談社を創立した野間清治、先述の松下幸之助、イトーヨーカドー創業者の伊藤雅俊、松下幸之助に深い感銘を受け後進に独自の経営哲学や心の在り方を伝える稲盛和夫先生(1932-)、花王の社長会長を務め心の充足を唱えた丸田芳郎、宅急便のビジネスモデルを立ち上げた小倉昌男、雑誌商業界の主幹である倉本長治、筆者としては彼らにもまた石門心学は大きな影響を与えたと考えている。

 

第3節 石門心学とCSR

 ここでは石田梅岩先生の唱える石門心学の真髄についてまとめる。

 「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と明解な言葉でCSRの本質的な精神性を表現した石田梅岩先生の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として昨今再評価され注目を浴びている。

梅岩先生の弟子である布施松翁の『松翁道話』の中で、「神・儒・仏ともに唱える心は一なり。いずれの法にて得られるも皆我が心を得るなり」としている。すなわち人間の心に響くものであれば、人間の心を磨くものであれば、また人間の心の修養に役立つものであれば活用してゆこう、ということであろう。朱子学における「性即理」ではなく、陽明学の「心即理」、理屈からではなく、あくまでも心から入ることが大切であるとしている。また、渡部昇一(1930-)は「最初に教義ではなく心がありき、となるべきで、石門心学の主体はあくまでも心を持つ人間である。」と述べる[15]。人間の心を銅に喩えるならば仏教、儒教、神道はそれぞれ鏡を磨く「磨き砂」であるという渡部氏の指摘が、正鵠を得た例えであると思う。

 また、石門心学を明らかにすることに加えて実践することも大切である。すなわち、単なる教義ではなく、「実践哲学」と言って良いだろう。

 ヨーロッパにも石門心学に通ずると思われる、マックス・ウェーバー(1864-1920)[16]のプロテスタンティズムがある。彼はその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、ベンジャミン・フランクリンについて「プロテスタントの倫理を持った資本主義精神の持ち主」と評価している。ベンジャミン・フランクリンの『倹約と正直』では梅岩先生の『斉家論』などで繰り返されている「勤勉・倹約」の精神と、その結果得られた富、さらに必要なものとして「人の道」「道徳心」があると述べている。形成されつつあった資本主義精神の源泉にプロテスタンティズムがあり、筆者としてはそのままの一致とは言えないが、その精神性は石門心学と通ずるものがあると考える。そしてそれらを実践により明らかにしてゆくことが、梅岩先生の望む考え方であるとも考えている。いずれにせよ梅岩先生は経済を理論のみで捉えるのではなく、経済活動を含めあえて人間の心のあり様、人間の幸せの問題に置きなおして考えたのではないだろうか。

 この点においては辻本雅史(1949-)[17]の考え方を重要な参考とさせていただいた。

 戦後、先進各国では高度成長が続いたが、アメリカでは1980年代に、日本でも1990年代に成長の陰りが見え始め、バブル崩壊と「失われた10年」[18]が続くが、それに並行して高度成長期には見られなかった様々なコンプライアンスにかかわる問題が噴出してきた。かつての薬害エイズ問題をはじめ証券会社の損失補てん、ここ数年においての食品の賞味期限切れ問題、産地偽装問題、会計の不正操作であるライブドア事件など枚挙にいとまがない。当時の某会見での「お金を儲けて何が悪いんですか」発言にも象徴されるように、社会的責任や倫理観を育むことなく肥大化した企業[19]の精神的未熟さや傲慢の表れと言えよう。

 このような時代こそ、経営哲学と言うべき石門心学の必要性が再確認されるべきであり、企業は社会的責任[20]の持つ意味を十分に吟味したうえで自らを律する必要があると言える。そして経営哲学こそが企業統治の中核に位置づけられるべきと筆者は考える。

 

 

第3章 現代における石門心学の実践

 

1節 近江商人と心学思想

 この章では石門心学を未来に繋げてゆくため、前述した明治から平成にかけての石門心学の実践者たちについてさらに詳しく述べてゆくこととする。

江戸幕府300年にわたり極めて多くの近江商人が活躍した。彼らは石門心学や中江藤樹(1608-1648)[21]の影響も受けており、「家訓」と「掟」という形でその経営哲学は実践されてきた。

五箇荘出身の中村治兵衛は麻織りを地場産業に育てた豪商である。二代目になって定められた家訓のひとつの項に「貧も富も我一心にあり、悪心起こらば家を持つこと能はず。家督を我が子に譲るまでのたかだか30年は謹んで奉公の身と思うべし。」としている。近江商人にとっての店とは主人の私有財産ではなく公の企業体であり「のれん」というより「ご先祖様」であると厳しく自分を律した。自分の代で店を潰すことは営々と築いた歴史であるご先祖様に申し訳ないという観念が、近江商人が様々な土地に根を張り封建制度の中で多くの有力商人を輩出できた要因と言われている[22]

例えば当時では珍しい幹部の現地採用なども行われ、その土地に根付いた実力者を重用することが多かった。ソニーの盛田氏の言う「グローバルに考えローカルに行動せよ」にも通ずるものがあろう。さらに意に沿わぬ嫡子には家督を継がせず、「押込隠居」[23]をさせる徹底ぶりであった。武士の世界で言う「お家大事」にあたり、先祖代々の店を存続させるため、主人の地位に就くことは個人財産の相続に留まらないのである。

現代における近江出身の商人は、日本生命創始者の弘世助三郎、東洋紡績創始者の阿部房次郎、トヨタ前身の豊田織機を創った豊田利三郎など多く存在し、商社の丸紅・伊藤忠や第一銀行、東洋紡績、島津製作所など枚挙にいとまがない[24]。小倉栄一郎の『近江商人の経営』にも描かれているとおり、近江商人のネットワークの広さは驚くばかりである。

石田梅岩先生の『都鄙問答』の中で「売り先の心に合う者」として次のように述べている。「武士たるもの君のために命を惜しまば、士とは言われまじ。商人もこれを知らば、我道明らかなり。わが身を養わる売り先を粗末にせずして真実にすれば、十に八つは売り先の心に合う者なり。売り先の心に合うように商売に精を入れ勤めなば、渡世になんぞ案ずることあるべき」として、もっぱら売り先(買い手)と商人(売り手)の二方について述べられている。近江商人は各地で営業拠点を築き商いを行う中で、そこからさらに「世間よし」を加えた「三方よし」の重要性へと発展させ掟となって行ったようである。

 

第2節 心学思考と近代の経営者たち

第1項  野間清治(1879-1938)

 彼は講談社の創設者であり、「雑誌王」と呼ばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した人物である。ビジネスにおける倫理の大切さを主張し、ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、成功への近道とは道徳的な道に他ならないとし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。

戦前の講談社の代表的出版物である『修養全集』では、全12巻の中で石門心学を取り入れており、「自分の心を磨くためには偉い人たちの学ぶべきところを拾い集めて使ってよい」と、非常にストレッチの効いた考え方を彼の経営人生全般にわたり実践していった。石門心学の心髄を簡潔に捉えており、彼の考え方は野間心学ともいわれている[25]

 

第2項  松下幸之助(1894-1989)

 彼の人生観がどのように培われたかについては、釈迦・豊臣秀吉・加藤清正・西郷隆盛などの影響があったといわれ、両親や身近な人々の教えや書籍の中からつかみ取った真実を集積して彼独自の人生観、事業観として来たものである。自分自身や自分の経営に役立つものであれば謙虚に取り入れており、まさにストレッチの効いた石門心学の捉え方である。『日経ビジネス』によると、松下幸之助は昭和45年に創った「松下幸之助商学院」[26]の具体的教育方針は40年以上にわたり変わることがないそうである。現在のパナソニック商品の3分の1はこの商学院を卒業した町の電気店経営者たちによって売られている[27]

 

第3項  伊藤雅俊(1924-)

 イトーヨーカドーグループを築き上げた創業者であり、母と兄を商人の鑑として商人の道・人の道を教えられ、多くの人の支えで今日の自分とイトーヨカドーがあると述壊している。彼の述べる商売の基本とは「お客様は買ってくださらないもの」「お取引先は売ってくださらないもの」「銀行は貸してくださらないもの」とし、だからこそ信用が大切でそれを担保するものはお金や物ではなく人間としての誠実さ真摯さであると語っている。昨今の不祥事についても、道理に合わない成功は必ずしっぺ返しがあると述べて奢り高ぶりを戒める。人間の良知を信じる性善説を取り商いや商人の道を極めてきた彼の言葉にも、石門心学に通ずる実践経営哲学がある。

 

第4項  小倉昌男(1924-2005)

 前述の伊藤雅俊氏に経営の師と言わしめ、絶対に儲からないと言われていた個人宅配業

で「宅急便」という優れたビジネスモデルを仕上げた。「サービスが先、利益は後」の考え方で、本当のサービスとは、という問いを何度も自分に投げかけ、供給者の論理でサービスを押し付けることなく、お客様の論理に合ったサービスこそ本道であると考えた。[28]これは石田梅岩先生が陽明学で得た「知は行の目的であり、行は知の実行である」という教えに通ずるものである[29]

 

第5項  丸田芳郎(1914-2006)

  花王石鹸を日本最大のトイレタリー・メーカーに押し上げた立役者である。自らについて「経営者である前に仏教者である」と語り、花王の社長・会長として「商」の最前線で活躍された。彼によると利益とは買って頂いた方々からのお布施であり、次の研究開発に活用しなければならないと考えていた。仏教を経営に活かすという見地から様々な仏教の教典を学び、その中から経営にに役立つものを引き出している。その中には聖徳太子が著した十七条憲法「和の憲法」から、和の経営・和の精神を取り入れている。例えば花王では社内において社長以下すべての社員が同じものを食するという。これも「和の精神」の実践の一端である[30]

 

第6項  倉本長治(1894-1982)

 雑誌『商業界』の主幹を務め、昭和362月、「第27回ゼミナール(通称・箱根ゼミ)」において「商業界ゼミナール誓詞」を発表、そこでは商人の姿勢についてその基本的あり方を示した。この誓詞を斉唱しやすくまとめなおして以降、「商業界」の集会のはじめに繰り返し読み上げられているのが「商売十訓」である。毎年2月には寒さも吹き飛ぶような熱い議論が交わされ、討論により「真の商人のありかた」を模索した。

「商売十訓」

一 損得より先に善悪を考えよう

二 創意を尊びつつ良いことは真似ろ

三 お客に有利な商いを毎日続けよ

四 愛と真実で適正利潤を確保せよ

五 欠損は社会のためにも不善と悟れ

六 お互いに知恵と力を合わせて働け

七 店の発展を社会の幸福と信ぜよ

八 公正で公平な社会的活動を行え

九 文化のために経営を合理化せよ

十 正しく生きる商人に誇りを持て

 

 ここで述べられている十訓では、江戸時代の石田梅岩先生が築き上げた石門心学の内容とほぼ同様のことが示されていると筆者は考える。時代を超えても通用する考え方こそ価値があると言える。

 戦後の歴史の中で、町の商店街が廃れ始めて久しい。『商業界』活動が非常に盛んであった昭和60年あたりからすでに、商店街のシャッター通り化は問題になっていた。それから30年近く経って、その問題はいよいよ深刻な局面を迎えている。元気に生き残っているのは大都市のごく少数の商店街となりつつある。そして小売業における業態間競争は一層激しさを増しており、百貨店・GMS・駅前の専門店・特色のないディスカウントストアは軒並み成績を落としている。優れた経営哲学と共に、再び顧客の心に響くビジネスモデルを構築してほしいものである[31]

 

第3節 稲盛和夫(1932-)の「ともに生きる経営」と心学

  筆者が最も尊敬している経営の師である。盛和塾に入塾させて頂いて以来、5千人の一人として10年の月日を稲盛先生に学んできた。できの悪い生徒ではあったが、「私の会社は3人の兄弟で経営しています」と申し上げると、「おまえさんが一番出来が悪そう」とニコニコしておられた。技術者ご出身で、弊社の自転車について色々と尋ねてこられた。

 200135日の日本経済新聞『私の履歴書⑤』によると、先生は母親の「苦労して高校まで行かせたのに遊び呆けて」の一言で気付き、好きな野球をきっぱりと辞めて翌日からは父親の内職で作った紙袋を自転車に積み、町じゅうを菓子屋・八百屋・闇市までも

売り歩いたという。どこも品薄で飛ぶように売れ、繁忙で中学を卒業したばかりの少年を雇うほどであった。そのみごとな攻勢に福岡から来た同業者もあきらめて撤退したという。この時代に「商」の何たるかを肌で感じたのであろう、3年間続いたこのような行商こそが、自らの事業の原点となった。どうしたらお客様が喜んでくださるかや、約束の大切さ、値段設定の重要性など、様々な苦労もあっただろうが、商いの面白さも十分に感じられたであろう。

 次に彼の経営者人生に影響を与えたのは大学を卒業後、碍子会社の松風工業に勤務した時期で、そこで特殊磁器と言われるニューセラミックスや、とりわけ高周波絶縁性の高いフォルステライト磁器の研究を任されたという。みすぼらしい会社で、仲間と相談して辞めようとしたがかなわず、結局ひとりだけ取り残されてしまった。ようやくふっきれた彼は研究に没頭し、松下電子工業の注文をスト破りをしてまでこなすなど、お客様の要望に何としてでも応えようと努めた。お客様第一、大きく言えば企業の社会的責任を果たそうとしたと言える。

 後任の部長との意見の相違でいよいよ辞職しようとするときに、特磁課の部下たちが付いてきて、一緒に会社を立ち上げることになった。先生の人間性やリーダーとしての器は、その努力や先見性とともにこの時代にはすでに身につけておられたのであろう。諸先輩の温かい援助も得て、自らの技術を世に問う事を目的に、血判まで押して「一致団結して世のため人のためになる」と誓い合った。社名は「京都セラミック」で、1年間わき目も振らず走り続け、売上2600万円、経常利益300万円の黒字決算となった。このように全社一丸での成果と自信が芽生えころ、彼は第3ステージを迎える。

19614月末、高校を卒業して入社した社員11人の反乱にあった。彼らの主張は毎年の賃上げのほかに、ボーナスも具体的に回答してくれなければ辞めるというものであった。稲盛先生にとっては生まれたばかりの会社に保証できるはずもなく、自宅に招いての直談判となった。すると従業員はつぎつぎと社長の手を取り泣き出したという。自分の創業の狙いは自分の技術を世に問うことであったが、若い社員はこんなささやかな会社にも一生を託そうとしている。「自分は田舎の両親の面倒すら見られないのに、社員の面倒は一生見なくてはならない。会社を経営するとはこういうことなのか。」と、彼の意識の中で真の経営者としての認識が生まれたようである。これを機に、経営理念を「全従業員の物心両面の幸福追求」と掲げることとなった。すなわち、彼の理想実現を目指す会社から、全社員の会社となり、さらには「人類・社会の進歩発展に貢献すること」を付け加えた。

稲盛先生は塾生である我々に、「あんたらの経営理念を聞いていると、京セラといつも同じや。会社は違うんやから自分の会社の理念を考えなきゃ。」と笑って仰る。筆者としては、「稲盛経営哲学を学んでいるのだから、先生の会社の理念を頂いても悪くない。行動指針はそれぞれの業態の特色があろうが、理念は少々のアレンジでOK!」と感じている。

宮田矢八郎[32]の『理念が独自性を生む』によると、企業の経営理念と経済効率の間には高い相関関係があるという。中小企業・大企業に関わらず多くの経営者は、現実の経営はそんなに甘いものではないとしつつ、理想と現実が違って当たり前という通念を持つ。しかしこの著書によると、経営理念があると答えた企業の経常利益の平均は、無いと答えた企業の1.7倍となっており、企業規模が大きくなれば効果利益ともに良くなることが証明された。この理論に違うことなく京都セラミック社は一流企業としての道を歩むことになる。

単なる規模の拡大ではなく、組織内部にも社会にも良い影響を与える企業である原動力は行動指針である。それは様々な場面においての判断基準であり、行動基準となっている。先生の語録にもあるように、経営哲学の根幹となっている。

その根幹の一つに、石田梅岩先生と同様の「神・仏・儒、悟る心は一つなり」として三教から得られた知見が大いに役立っていると、筆者は考える。

1980年以降、先生は塾生に対して「人間として正しいことは」「人生にとって一番大切なことは」「仕事とは」「会社経営にとって一番大切なことは」「アメーバ経営とは」など、さまざまな課題を与え続け、先生自身も独自のフィロソフィで答えるという、今日までの彼の「真実」を見出す人生ではなかったかと思う。

200131日日本経済新聞『私の履歴書』では、先生の故郷である鹿児島県の偉人、西郷隆盛の「敬天愛人」の遺訓を社是とし、心を高める経営、私心なき経営を実践してこられた。多くの課題について答えを示す稲盛塾長はまさに石門心学を我々に語り、教え導いてくださっていると言えよう。

岫雲の『稲盛和夫の「成功の方程式」』では、「経営の原点12カ条」として稲盛先生の語録を取りあげているが、これは多くの後進が自分たちの会社の経営指針として参考になるものである。その中では、

 

1.              事業の目的・意義を明らかにする

2.              具体的な目標を立てる

3.              強烈な願望を心に描く

4.              だれにも負けない努力をする

5.              売り上げを最大限に、経費は最小限に

6.              値決めは経営

7.              経営は強い意志で決まる

8.              燃える闘魂

9.              勇気をもって事に当たる

10.       つねに創造的な仕事を行う

11.       思いやりの心で誠実に

12.       常に明るく前向きで、夢と希望を抱いて素直な心で経営する

 

 となっている。筆者としては上記のような経営に関係ある語録に限らず、人生の指針ともいうべき珠玉の語録に多くのことを学ばせて頂いている。たとえば、

     心に描いた通りになる

     人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力

     ベクトルを合わせる

     倹約を旨とする

     小善は大悪に似たり、大善は非情なり

     反省ある人生を送る

     人間の無限の可能性を追求する

     チャレンジ精神を持つ

     もう駄目だと言う時が仕事の始まり

     真の勇気を持つ

     自らの道は自らが切り開く

     有言実行で事に当たる

     成功するまであきらめない

     動機善なりや私心なかりしか

     土俵の真ん中で相撲を取る

 

 いずれも簡にして明である。人としてごく当たり前のことを仰っているようにも見えるが、実行・実践ができないのが人間というものである。生涯にわたって仁の実践を行うことは「死して後己む。また遠からずや。」言われるほどに難しいものだということであろう。

 

第4節 サム・ウォルトン(1918-1992)およびウォルマートの理念と心学の共通性

 サム・ウォルトンにより創業されたウォルマート社は、世界第1位の小売業であるが、同時に世界のすべての企業の中で突出して1位の規模を持つ企業でもある。20091月発表では売り上げ4000億ドルを突破し、日本のトヨタ、石油業のエクソンモービル、隆盛を誇っていたころのGMでさえ凌駕する売り上げ高である。現在の経営陣たちすら「今やウォルマートは制御不能の巨大企業になった」と感じているという。ウォルマート社の社会における存在感もまた、サム・ウォルトンがCEOを務めていた時代と大きく異なっている。

 従来は、日常生活に要する商品をウォルマート社でしか買う事が出来ない階層に対し、「エブリデー・ロープライス(毎日が低価格)」で安さを訴求しておけば通用した。しかし今やそれでは済まない状況となり、「セーブマネー・リブベター」の標語が誕生している。企業の成長はやがてサスティナビリティー(持続の可能性)を企業戦略に組み込むこととなり、業界のみならず国境も超えた世界的な影響力を持つにいたった。グローバル企業となって未整備な国際社会に広がることはウォルマート社にとって成長のチャンスであるとともに、次々とかかえる多数の訴訟、社会の風評など大きくなりすぎた故の不利な条件もあり、安泰とは言えない。

 そんな彼らにとっては、1992年に発刊されたサム・ウォルトンの自伝『メイドインアメリカ マイストーリー』[33]の中で紹介された「ビジネス構築の10カ条」が事実上の社是となっている。なお、邦訳書では「サム流成功のための10カ条」として紹介されている。

 

1 仕事に誠心誠意「励め」。

2 利益はすべての従業員と「分かち合え」。連帯は信じられないような結果を生む。

3 仲間を「動機づけよ」。給料と会社の所有権(自社株)では人は満足しない。毎日新しい面白い動機づけの方法を考え、マンネリ化を避けよ。

4 パートナーには可能な限り「情報伝達を行え」。情報を与えれば与えるほど、理解が進むほど彼らは懸案を大事にする。

5 従業員がビジネスの為にした行為はすべて「感謝せよ」。賛辞はタダであるがカネでは計り知れないものが得られる。

6 成功は「祝福せよ」。失敗の中にもユーモアを見いだせ。

7 従業員の言うことを「よく聞け」。良いアイデアを下から上げさせるためには、従業員が話したがっていることを聞かねばならない。

8 顧客の期待を「超えよ」。間違いから学び言い訳をせず謝れ。

9 競合相手よりも支出を「抑制せよ」。効率的な運営ができている間は間違いを犯しても立ち直ることができる。

10 流れに「逆行せよ」。ひとと違う方向を目指せ。常識は無視せよ。

 

 筆者はここでもまた、ストレッチの効いた石門心学の精神を見る思いがする。顧客第一の心、創意工夫の心、倹約の心、感謝の心、情熱、和の心、どれ一つをとっても「心」の学びでないものはない。そしてウォルマート社はこれを確実に実行し、それを執念深く続ける企業である。

 今後の環境変化はあれど、上記のような社是・行動指針を持つかぎり、ウォルマート社が顧客・社会・国に対して背く行動はできないであろう。さらにウォルマート社はウォルマートウォッチ[34]とウェイクアップウォルマートという、社の行動を厳しく見守る組織を持っており、優れた自浄効果を持つことが大きな強みである。

 

第5節 株式会社あさひの経営理念と心学

 最後にわが社について少々述べたい。

 筆者の両親は戦後まもなくの動乱の中、私たち3人の息子を育てながら、貧しくも一生懸命に「子ども用乗り物の製造・卸・小売り」という一貫した業態で「商」をしてきた。その後両親の事業を引き継ぐ形となり、業態の変遷を経ながらも自転車専門のチェーンストアとして現在までに180店舗を築いた。やがて東京株式市場第1部に上場、現在は末弟が代表取締役社長を務めている。

 真のお客様志向を実現するために、一人ひとりが接客・販売のプロとして毎日汗をかいている。社長は常々、「商いは自分たちの会社にとって儲かるか儲からないかではなく、正しいか正しくないか、良いか悪いかを規律とする。その原則さえ守り常にフォー・ザ・カスタマーの精神で考えれば、何も難しいことはない。」と話す。さらに彼はざっくばらんな口調で「御釈迦さんもキリストさんも、殺生したらあかん・人を騙したらあかん・隣人を愛せ、と結局は人間が行うべき当たり前のことを説いておられる訳で、経営や商いも同じ。この様な原理原則さえしっかり守っておりさえすれば、大きな間違いは無いのではないか。」と言っている。兄二人が経営から遠ざかったのちも、末弟は社長としてその原理原則を護り、石田梅岩先生と同様に、経営学の教科書や参考書は紐解かずとも汗をかきつつ学んだ経営、商いを実践している。まさにそれがわが社のインタンジブル・アセットとなっていると言える。

 私たちの「あさひ」について「3人の男兄弟で同じ仕事を続け、よく円満に上場できましたね」と時にはいぶかしそうに尋ねられる。実は私たちは結婚してから長年の間、妻どうしの仲が良く、それぞれの夫婦が地域のお客様に可愛がっていただいて頂きながら、兄弟で1店舗ずつ引き継いだ店が今日の「あさひ」に繋がったのである。特別な事をしたわけではないが、あえて申し上げるならば、ただお客様に「正直」であったこと、お客様に常に「謙虚」であったことと言えるであろうか。また、大学などで学習を重ねた若者を早い時期から採用し高い知識を集積しようとしたことも現在の「株式会社あさひ」の強みとなっているに違いない。ここで弊社の社是と行動指針を記しておく。

 

「株式会社あさひ」の社是

私たちは自転車を通じて世界の人々に貢献できる企業を目指す。そして、その企業目的に賛同し参画するすべての人々が、豊かな人生を送ることを目指す。

 

行動指針

「知恵と勇気で常なる革新」[35]

 

 

結 章

 

第1節 「心」の経営哲学ともう一人の実学者、「二宮尊徳」

石門心学について様々のことを学んできたわけであるが、それらの中での自らの気づきとしては「この世界はいつも想った通りに実現する」ということである。悪いことを想えばそのようになる、善い事善い方向に考えれば良いようになるという、稲盛先生の「善因善果」「悪因悪果」という言葉である。企業経営や商いの最重要点に「心」「想い」という、論理では言い表せないものを置いた石田梅岩先生という人物に対して、筆者としては何がしかの神性を感じずにはおれない。それと同時に、現代の石門心学実践者である多くの人々は熱心な石田梅岩の信仰者であるとも思うのである。

 このようにあらゆる事業が人の想いによって成立しているのであるから、金銭・不動産・高額な資産などの目に見えるものだけで存在するものではない。昨今の過剰な利益重視・株主重視の経営志向の中で起きた、100年に1度と言われる世界金融危機を乗り切る知恵として、今こそ石門心学から学ぶものを確認しておく必要があるのである。この危機をむしろ本来の健全な事業経営に立ち返るチャンスととらえ、稲盛先生の示す「足るを知る」という言葉を今一度思い出す時が来たと考えたい。企業であれば資産を眠らせず効率的な運用を心掛けるなどが石田梅岩先生の「倹約は仁なり」という言葉の実践となるであろう。

直接の石門心学後継者ではないが、同様に自らを律する思いを説いて偉業をなした人物を取り上げておきたい。二宮尊徳(1781-1856)も又質素倹約を説き、欧米各国からは開国を要求され国内では天保の大飢饉であった大波乱の時期に、600余りの村を復興させた。実践家としての彼は梅岩と同じく農民の子として生まれ、幼い時に両親を亡くし苦労して成長後、若くして士分として採りあげられた。ちょうど石門心学の爛熟期と言える時期であるが、独自の考え方で当時の疲弊した農村を立て直した。

彼は決して石田梅岩のような思想家ではないし弟子たちが連綿と繋いできた石門心学によって村の復興を成し遂げたものでもない。滝澤中氏によれば、尊徳の成功実学は実践に裏付けられた現実的な方法と、人に迷惑をかけない人間としての「道徳」によって成り立つものだという。第1の成功実学「救済」の中では特に非常時にあたり、「今やらねばならないことに集中する」と「人々の働く場所の環境を整える」ことを教え、荒んだ家や公共物を修復することで、何より日々の人の心を修繕しようとしたという。また、返済不要のお金を受け取らない・借金はただちに低利に借り換えるなど、具体的な財政問題を心構えを中心として解決した。

2の成功実学「勤労」では、小さな努力の積み重ねにより大きな結果を得る「積小為大」を表し、人々に働いてもらうにはリーダーは率先垂範[36]が大切で、労使一体となって問題を解決する姿勢が必要であると説いた。さらに第3の成功実学「分度」という考え方を表し、彼はこれが明らかでなければ村の復興事業を請け負わなかったという。即ち、事業を行うためにかかる経費をしっかり決め、それをもとに経営計画を立てるべきという教えである。稲盛経営哲学の「アメーバ経営」とその根幹である「京セラ会計学」もまた同様のコンセプトを持っている。

そして第4の成功実学は「推譲」である。「推譲」とは、「分度」の中で堅実な経営をし日々営む中で、余裕が出たらそれを他者に譲るという意味である。有名な読書をしながら柴を運ぶ、忍耐と節制の象徴のような姿からは少し離れる、余裕や寛容も兼ね備えた人柄を感じる。経営に取り入れるとするならば、分度によって得られた余裕を他者に分け与える気風は有形無形の存立基盤になる。たとえば自社の周囲を清掃したり、ささやかな美化活動であっても立派な社会的責任の一環と言えるのである。

尊徳の第5の成功実学は「工夫」である。ここでは道徳と経済を両立させる工夫をさし、「五常溝」の中で金融システムについて述べている。五常というのは孔子孟子の説いた「仁・義・礼・知・信」のことであり、人の心を信用して資金を貸すという高い倫理観を人々に示すと同時に、連帯保証の工夫を取り入れて返済をより確実なものとしている。これについてはノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行創設者ムハマド・ユヌス氏のマイクロファイナンス[37]が、貧困層に広く融資すると同時に「3人一組の連帯返済責任」を取り入れ回収を確かなものにしており、尊徳にも通ずる知恵によって社会道徳と経済活動を両立できた例と言えよう。

さらに尊徳は人間の倫理観に働きかけ不祥事を防ぐ工夫、助けてもらうためにはまず相手の利益になることをする工夫、状況の悪化に備えて日頃から防衛を考える工夫、苦い経験はそれを考え抜く事で今後の武器とする工夫などがある。

これらの成功実学は、世界的な金融不安に直面している我々にとって大きな示唆を与えている。このような中で、有名でCSRも十分に果たしていると思われていたはずの大企業の中に、従業員に残酷な処遇を行うところが明らかになった。派遣切りを始め宿舎からも追い出す仕打ちは、昨日まで働いていた人々には大きな衝撃であっただろう。

稲盛和夫先生の『私の履歴書⑰』では、オイルショック当時の出来事に触れ、1974年に実施予定であった従業員旅行を「この様な時に浮かれている場合ではない」と急遽取りやめ、替わりに臨時ボーナスで報いたという。その後オイルショックで受注は激減し、産業界では人員整理や一時帰休が広がった。京セラも例外ではなく雇用などの再構築に踏み切らざるを得なかったが、稲盛社長としては「社員あっての会社であり運命共同体である。雇用は死守する。」と宣言した。もちろん少ない仕事に従来通りの人数の従業員を配置すれば過剰となる。余った人員は草取りや清掃、機械の保守などをあたらせた。そのような中、存続のための経費削減として昇給の1年間凍結を組合に提示したが、組合も応えるように「喜びも悲しみも分かち合う」と返事し受け入れた。厳しい条件下にこのような対話が実現できたことは、まさに人としての道徳と持続する経済活動を両立するための稲盛先生の経営哲学が従業員にも理解された結果であり、心による経営がなしえた成果といえよう。

 

第2節 むすびとして

この様な経営哲学「石門心学」を学ぶ学舎は現在4か所である。大阪の「心学明誠舎」、京都の「心学明倫舎」、東京の「心学参前舎」「石門心学会」である。数年前に東京の参前舎でR.N.ベラー教授の講演があり、その折に稲盛先生がパネラーとして参加されたが、その後ホームページも閉じられ活動は活発ではない。残念ながら公開講座など実際の活動を続けている学舎は大阪の明誠舎のみとなっている。その明誠舎では筆者自身も会員として活動に参加させて頂いているが、会員の全体構成としては筆者のように実際の経営から離れた人や研究者、公的機関の役員、学生(少ないが)といったメンバーで、今後とも石門心学が特に役立つと思われる現役の企業役員や若手中堅幹部、若手社員(女性も含む)の参加が少ないように思われる。ぜひともストレッチの効いた石門心学を多くの若手経営者にそれぞれの会社に実学実践して頂き、自社の会社ひいては社会全体にまでも影響を及ぼすという経験を積んで頂きたいと願っている。

さて本稿で述べてきたとおり、石門心学は神道・儒教・仏教の三教合一説を基盤としてその最も尊重するところは、正直の徳であるとされる。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによってその心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を「行う」というものである。であればこそ学問としての石門心学に留まらず、あくまで実学実践として生きた哲学でなければならない。

石門心学の確かな実践者たちは、自社の社是・社訓、近江商人の末裔たちの家訓などに活かし続けてきた。現代の実践者と言うべき松下商学院や箱根ゼミナール、盛和塾、そして我が心学明誠舎などはその学舎にとどまらず、それらを取りまく組織や集団にも大きな影響を与え社会に活かされている。それはなじみの深い銅像をはじめとする二宮尊徳の社会への影響力にも言えることであろう。

筆者が学んだ稲盛先生の率いる盛和塾は、国内535500名、海外7405名の会員が塾長の経営哲学を真剣にひたすら学んでいる。塾生の中からはすでに76社以上が上場し、国内外の塾同士の交流も活発で活きた稲盛経営哲学が存在する。塾長自身も昨年6月、中国の北京大学・清華大学の招聘を受けて、個人の人生や国家経営までも含む稲盛経営哲学を語り万丈の気をはかれた。

江戸時代から大阪に存在した実学の教えは数々あり、適塾・懐徳堂なども現在は文献として引き継がれているが、今もなお力強く息づく実践哲学として、盛和塾をはじめとした「現代における石門心学の実践者たち」のますますの活躍が期待される。すべての企業が目標とする、長く持続可能な組織経営を実現させるためには、各論的な経営手法を希求するだけではなく、石門心学のような社会利益を鑑みた、深い精神性をとなえる統合的な経営哲学を育てる必要があるのだ。

以上

 

 

 

謝 辞

締めくくりにあたり課題研究のご指導を賜った松村勝弘教授をはじめ、フィールドワークに同行し示唆を頂いた紀之崎剛氏、瀧本克氏、基本書を推薦頂いた矢崎勝彦氏に感謝を申し上げる。また京都大学の吉田和夫教授、有田礼二氏、当社監査役の北山顕一氏にもお礼を申し上げる。最後に我が実学の恩師である稲盛和夫塾長に深く感謝を申し上げる。

以上

 

追 記

修士課程の修士論文については盛和塾在籍時代に塾長と京都経済倶楽部でお話しした中で私いわく「塾長は私たちに心学を教えていただいているのですね」塾長いわく「そうだよ、その通りだよ」と例のニコニコ顔で話されたのがきっかけになり自分としては単なる言葉(語録)の解釈だけでなくあくまで実践的にそれを活かす、すなわちストレッチの効いた経営哲学として捉えてみたつもりである。更にこの経営を単なる「商い」「会社経営」という狭い意味だけにとらわれるのではなく自分自身の「人生の経営」「家庭の経営」そして「国家の経営」を始めとするあらゆる組織体の経営にも敷衍させることができるのではというのが筆者の考えである。

以上

( 参考文献 )

 

     伊藤雅俊『商いのこころ』日本経済新聞社,2003

     稲盛和夫『働き方』三笠書房,2009

     稲盛和夫『私の履歴書』日本経済新聞社,2001

     『論語力』講談社,2008

     梅原猛、稲盛和夫『人類を救う哲学』PHP研究所,2009

     小倉栄一郎『近江商人の経営』サンブライト出版,1986

     小倉昌男『自ら語る小倉昌男の経営哲学』日経ベンチャーDVDブックス,2005

     鍵山 秀三郎『凡事徹底』致知出版社,1994

     岸祐二『手に取るように日本史がわかる本』かんき出版,2001

     倉本初夫『商売十訓』商業界,1985

     栗原剛『佐藤一斉―克己の思想』講談社,2007

     司馬遼太郎『この国のかたち』1巻・6巻)文春文庫,1993,2000

     鈴木正三『現代に生きる勤勉と禁欲の精神』東洋経済社,1995

     岫雲『稲盛和夫の「成功の方程式」』サンマーク出版,2007

     滝沢中『日本で一番不況に強い男・二宮尊徳の成功実学に学ぶ』中央出版社,2009

     竹中靖一『石門心学の経済思想』ミネルバ書房,1962

     竹村亜紀子『人生に生かす易経』致知出版社,2007

     寺田一清『石田梅岩のことば』明徳出版社,2007

     平田雅彦『企業倫理とは何か―石田梅岩に学ぶCSRの精神』PHP新書,2005

     チャールズ・フィッシュマン、中野雅司・三本木亮訳『ウォルマートに呑み込まれる世界-「いつも低価格」の裏側で何が起きているのか』ダイヤモンド社,2007

     ジェームズ・フーブズ、有賀裕子訳『経営理論偽りの系譜-マネジメント思想の巨人たちの功罪』東洋経済社,2006

     R.N.ベラー、池田昭訳『徳川時代の宗教』岩波文庫,1996

     丸田芳郎『心の時代』日本経済新聞社,1988

     溝口雄三『李卓吾-正統を歩む異端』集英社,1985

     皆木和義『松下幸之助と稲盛和夫-経営の神様の原点』総合法令社,1998

     宮田矢八郎『理念が独自性を生む』ダイヤモンド社,2004

     安岡正篤『立命の書―陰誓禄を読む』致知出版社,1990

     山本七平『勤勉の哲学-日本人を動かす原理・その2』祥伝社,2008

     吉田和男『現代に甦る陽明学―伝習録巻の上を読む』麗沢大学出版会,2006

     吉田時雄『勇者の経営』TBSブリタニカ,1993

     渡部昇一『「仕事の達人」の哲学-野間清治に学ぶ運命好転の法則』致知出版社,

2003

     サム・ウォルトン、渥美俊一・櫻井多恵子訳『私のウォルマート商法-すべてを小さく考えよ』講談社+α文庫,2002

以上



[1]20089に顕著化した、20078月からのサブプライムローン問題に端を発した世界金融危機。リーマン・ブラザーズ証券が2008915日に連邦倒産法の適用を申請し、倒産した。さらに金融市場の混乱に対処するため策定された緊急経済安定化法が事前にアメリカ議会指導部と政府の合意があったにもかかわらず予想に反して929日にアメリカ下院で否決されるとこの日のニューヨーク株式市場ダウ平均株価は史上最大の777ドル下落し世界の金融不安が加速した。

[2] 江戸中期の思想家・石門(せきもん)心学の祖。名は興長、通称は勘平、号は梅岩。

8歳で京都の商家に奉公。15歳の時一度故郷に戻ったが23歳で再び京に上り、呉服商・黒柳家に奉公。43歳の時、京都の小栗了雲に師事。1729(享保14)年、45歳で自宅(車屋町御池上ル)に講席を開く。

梅岩が大成した「心学」とは儒教・仏教・神道・道教の説を取り入れ、庶民の日常生活の中に取り入れたもの。「負けるが勝ち」とは梅岩が説いた言葉という。

1744(延享元)年60歳で死去。洛東・鳥辺野の延年寺に葬られた。

[3] 石田梅岩先生自身は生涯独身であるので、直系の子孫ではない。

[4] 男女・身分の分け隔てなく受講を許し、受講料は取らなかった。45歳頃から始めたといわれる。

[5] 『斉家論』、彼の弟子による『石田先生語録』『石田先生声蹟』などがある。

[6] その思想の根底にあったのは、宋学の流れを汲む天命論である。同様の思想で石田先生に先行する鈴木正三の職分説が士農工商のうち商人の職分を巧く説明出来なかったのに対し、梅岩先生は長年の商家勤めから商業の本質を熟知しており、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。

[7] 吉田和男『現代に甦る陽明学』280頁を参照されたい。

[8] 元禄5年。元禄期の町人の活力が窺われる書。「富貴には上なく、欲ははてなきものなれば、人の富貴を羨むこと、絶ゆる時なし。足ることを知れば、貧しくとも富み、足ることを知らねば富めども貧し」など。

[9] 竹中靖一『石門心学の経済思想』328329頁を参照されたい。

[10] 都鄙問答において俗儒と真儒を峻別しており「仮令手に汗し棟にみつる程を読むとも性理にくらき者は朱子の所謂記誦詞章の俗儒にして真儒にあらず」としている。

[11] 竹中、前掲書399頁を参照されたい。

[12] 享保3513日(1718612日~天明629日(178638日))江戸時代中期の心学者。豪商上河蓋岳の子で、母は上河氏。子に手島和庵がいる。本名上河喬房。通称を近江屋源右衛門という。字は応元、名は信、別名は東郭。18歳の時に石田梅岩に師事。

[13]手島堵庵著『我津衛』3巻より。

[14] 宋学・儒学をさす。

[15] 渡辺昇一『「仕事の達人」の哲学-野間清治に学ぶ運命好転の法則』16頁を参照されたい。

[16] ドイツの社会学者・経済学者である。マックス・ヴェーバーと表記されることもある(正式な名前はカール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber)。同じく社会学者・経済学者のアルフレート・ヴェーバーの兄である。

社会学の黎明期の主要人物としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメル、カール・マルクスなどと並び称されることが多い。

[17] 京都大学教育学部教授。日本の思想史家、教育学者である。文学博士(大阪大学、1990年)。愛媛県出身。

[18]ロストジェネレーション・英語(the lost decade)は、ある国、あるいは地域の経済が10年もの長期にわたって不況と停滞に襲われた時代を指す語である。日本における失われた10年はバブル景気崩壊後の1990年代中期から2000年代前半にわたる不況の時代を指す語である。複合不況や平成不況とも呼ばれる。

[19] 海外では米国のエンロン事件、ワールドコム事件などが有名である。

[20] 法令遵守、有益な商品サービスの提供、環境保護、収益の確保と納税、地域社会の発展、人権、配当、雇用創出などがある。わが国では、近江商人による「三方よし」があげられ、日本企業の社会的責任の先例と言われている。

[21] 陽明学者。「孝」の哲学を著した。

[22] 小倉栄一郎『近江商人の経営』110頁を参照されたい。

[23] 一定の生活水準と財産を保証する代わりに店の経営には一切参画させない処遇。

[24] 筆者自身もスーパーマーケット「平和堂」社長である夏原氏を存じているが、典型的な近江商人で、滋賀では圧倒的な強みを持つ。盛和塾のほぼ創成期からのメンバーである。筆者の住む大阪市都島区に、かつて浪華絹綿という紡績会社があったが、彼らも又石門心学や中江藤樹の影響が大きかったと思う。

[25] 渡部、前掲書を参照されたい。

[26] パナソニック系列店の後継者育成を目的に設立された。午前6時起床、校庭で故郷に向かって敬礼をし、体操、マラソン、教学などぎっしりと詰まったカリキュラムで有名。電気工事などの実務から、心理学・論語・四書五経・茶道など、幅広い。厳しい生活規則を経て、卒業式には安岡正広氏の講話もあった。当社監査役の北山顕一氏が学院長で、滋賀県の立命館大学BKCの近くに学舎がある。

[27] 皆木和義『松下幸之助と稲盛和夫-経営の神様の原点』97頁以下。

[28] 筆者が企業勤めを辞めて家の事業を手伝うようになった頃、お客様に送る商品を当時の国鉄の小荷物扱い所(片町にあった)へ持って行ったが、常に配達してやるという態度で、少しでも梱包が十分でないと戻された。茶菓を持っていったりお世辞を言ったりと苦労は尽きなかった。クロネコヤマトの宅急便による大きなイノベーションが起きるずっと以前の思い出である。

[29] 小倉昌男『自ら語る小倉昌男の経営哲学』を参照されたい。

[30] 丸田芳郎『心の時代』を参照されたい。

[31] 倉本郁夫『商売十訓』を参照されたい。

[32] 産業能率大学経営学部教授。

[33] 邦訳書サム・ウォルトン『私のウォルマート商法-すべてを小さく考えよ』17384頁を参照されたい。

[34] 筆者にも時折、意見を求めるメールが送られてくる。

[35] この行動指針については、アメリカの自転車メーカーに招待され渡米した折に偶然目にした霊柩車の広告フレーズ「Innovation or die」すなわち、改革しなければ会社がつぶれるよ!という意味をわが社流にアレンジしたものである。

[36] 山本五十六の「自ら実践し、説明し、やらせて褒める」にも通じる。現代のように企業に組合が発達した時代には尚更そのような姿勢が求められよう。

[37]従来、銀行などの金融機関からは相手にされなかった貧困層に対して、貯蓄や原則無担保の貸付等のサービスを提供し、人々が日々の生活の糧を稼ぐ手助けをする事業である。貧困削減の画期的な方法の1つとしても広く認識されている。2006年のユヌス博士によるノーベル平和賞受賞後、その知名度はさらに上がり、関心も高まりつつある。

前へ