私と石門心学の出会い


舎員  藤野 孝夫  .

はじめに 
 本ホームページのご担当の井上 宏氏から投稿のご依頼を受けた。私を竹中靖一先生のお弟子さんとご指摘もあり、恩師懐かしさがつのり、ふたつ返事で執筆を承諾してワープロに向っている。題はおこがましく「私と石門心学の出会い」として、竹中先生との出会いや、学生時代の思い出、商業教育へのかかわりを記述してみたいと思う。
 いま、平成
22年の1067歳と6ヶ月となり無職の身であり、地区の自治会長の一年生である。肩書きは島根県隠岐郡隠岐の島町久見区長ということになる。東京からいらした方に名刺をお渡ししてご挨拶すると「えっ!区長をなさっているのですか?」と念を押される。まさしく処変われば品変わるである。隠岐の島に住んでいる

竹中先生との出会い
 隠岐で生まれた私は、公務員をしていた父の転勤に伴って中学校は松江、高校は出雲と本土で育った。言わば地方都市でのんびりと成長したわけである。島の出身らしく七つの海を渡り航海する船舶の船長になるのが夢であったので、英語は力を入れて勉強をした。ところが、視力や体力がそれに向かないということで、その希望はかなえられなかった。

 昭和39年人々を幸せにするのは経済学ということで大学に行くのなら経済学を学ぼうということで近畿大学に進んだ。そこで、竹中靖一先生と出会うことになる。 ちょうど当時竹中先生が石門心学の経済思想のご研究で日本学士院賞を受賞された時で学内は活気にあふれていた。経済学舎の講堂で記念講演があり、先生は我々学生に向って「ひとつのことをこつこつとやることがわたしのやったことだ。君たちも縁あって自分のやることときめたらつづけることだ」といわれた。白髪で小柄でエネルギッシュでいまにも走りだしそうな風貌は清清しく魅力的であった。ゼミは竹中先生にしようとその時思った。その元気は後で、私が教員になったときその学校の老先生から「君は竹中先生についたかね。私も旧制山口高等商業学校(現山口大学経済学部)でラグビー部の顧問を竹中先生にしてもらったよ」といわれてなるほどと納得した。

竹中先生の講義
 竹中先生の学士院賞受賞を記念したかのように「日本経営理念史」という講座が設けられた。受講する学生の間で経営理念と経営科学についての論議が持ち上がった。私はこのことについて竹中先生に手紙を差し上げた。先生は講義に私から手紙をもらったことを紹介され「長年教師をしているが、学生から講座のとで手紙をもらったことは初めてだ。まだ、一年間の講義の草案はできていない。この手紙に一年を掛けて答えるつもりだ。ところで藤野君は出ているのか。おれば手をあげなさい」といわれたので、私が手をあげると、私の風貌が先生の想像されたのと違ったのか、ちょっとがっかりされたご様子で「おっつ!君か」と言われ先生が私を始めてご認識された瞬間となった。

心学明誠舎のお手伝い
 竹中先生は大阪明誠舎の運営を京都大学の柴田 実先生となさっておられた。柴田先生は柴田 鳩翁先生のご末裔ということでいかにも儒学者という感じの涼やかな先生であった。月に一回旧住友本邸跡(茶隴山道場)で一般の人々を対象に石門心学にかかわる講義をされるのを、私たちゼミ生がお手伝いをした。後に自動ドアのナブコで活躍されることになる岩間 勝美君と二人で資料を配ったり、お茶の接待をするのが私たちの仕事であった。講座の隅にちょこんと座ってお二人の先生の心学話をじっくりと聞くうち商業道徳を重視する商業教育の方へ進むことを熱望するようになった。

高等学校の教師として
 高校の商業科の教員を志願するようになり首尾よく大阪市立扇町商業高等学校教諭として大学卒業の昭和43年から40年にわたる教員生活に入った。石田 梅岩先生の教え「正直・倹約・勤勉」を竹中流で高校生相手に話をしてき。駆け出しのとき、住友の大恩人田中 良雄氏の詩を生徒に話をしたら、その生徒が卒業式の答辞を読む中で私の話として引用したのは大変うれしかった。

 「 私は一隅を照らすものでありたい
  わたしの受け持つ一隅がいかにはかなく
  みじめなものであっても
  いつもほのかに照らしてゆきたい
 この心で扇町商業高校で学んだ、商業技術を生かして頑張りたい」と結んだ。私は教師になってよかったと思った。その感動はいまでも忘れない

 私は、商業は他の産業と違って人が相手の産業であり職業なので、ごまかしやうそが生ずる可能性がある。これを内から律する心の鍛錬が必要であると思う。そういった取り組みは今後大いに深め盛んにしなければならないと思う。遠くで波の音が聞こえる隠岐の北岸の漁村の古い江戸の隠岐造りのまんまの家の部屋でそのようなことを考えながらワープロを打ってみた

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