平成の「心学明誠舎」活動から、私の「心学DNA因子」を読み解く

(社)心学明誠舎理事・事務局長 
                             
中尾敦子 


大阪春秋117号「大阪の私塾」(2004.12.20発刊)寄稿文より転載 

 何十年も昔のこと、毎月決まって、我が家の座敷は大机の周りに簡易謄写版、封筒、領収綴などさまざまなものが陣取る。それらのものに埋もれるように、きっちり座り黙々と作業していた筆者の父竹中靖一と母芳子の姿が今も脳裏に残存している。「ただいま」、「お帰り」への応答もなく、夕飯の時間がすぎていくのにおかまいもなく作業は続き、帰宅した子どもたちが適宜手伝いに参加し、封筒に詰められたものや、謄写版ですった宛名を張り付けたハガキを数え、月例の作業は、薄汚れた手と空腹の中でやっと終了する。当時、心学はもとより物事の有り様、大切さなどまったく理解できない、いたずら盛りで遊び盛りであった筆者にとって、このいやな時間が過ぎ、日常の暮らしのリズムを早くとりもどせることの方がどんなにか大切であった。さらに、この作業の何日か後には、決まって両親がそろって遅くまで留守をする日が来て、子どもだけの寂しい夕食の時を迎えるのであった。
 天明5年(1785年)に創始され、歴史の中で幾多の変遷を経て 、昭和30年(1955年)に復活した心学明誠舎活動は、発起人の一人として事務局を引き受けた竹中靖一が、例会の準備から開催までの主な作業を、個人的に準備し、取り仕切っていた。それは、竹中夫婦を中心にした家族労働に支えられ、それが明誠舎活動の命運を繋いできたと推察できる。

 竹中靖一は、この時代には経済学と言うより、石門心学に特化した経済史に研究領域を向けていた。彼は、イギリス経済史を専攻する学者であったときくが、戦争という大きな波に研究の方向性を変えさせられたと聞かされている。明治時代、心学明誠舎を復興させた一人で、医者である山田俊郷 (母芳子の曾祖父)の没後、その娘山田雅子(芳子の祖母)から、竹中靖一がたまたま預かった蔵書など心学明誠舎資料を手元に所有していたことが、「心学」研究へのきっかけとなったと聞いている。筆者とは研究領域が異なり、また身内であることから、竹中靖一の学者としての功績を論じる事は避けておきたい。しかしながら父親として、一人の男としてみると『まじめ・勤勉・没私利私欲・探求心旺盛』など俗に言われる『学者馬鹿』に通じる素質を持ち合わせていたと思える。このような生来の素養も重なり、昭和39年(1959年)にはそれまでの研究成果を「石門心学の経済思想」 として上梓、幸運に日本学士院賞を受賞した。さらにこの時期は、産業界の高度成長期であり、戦後の混迷期を通り過ぎ、市民が、文化的、精神的なよりどころとしての学習嗜好が向上する時期と重なり、家内工業的な仕掛けで復活した社団法人「心学明誠舎」活動も活性化し始めていた。そのあかしは昭和30年(1955年)以来昭和57年(1982年)9月までに、月例例会は275回開催されたと記されている。しかしながら、世俗的な欲得を持ち合わせない竹中はこのような繁雑な事務をほぼ一人で、というよりか家内工業のままでこなしていたのである。心学明誠舎活動が大きくなり社会的な認知を得、舎員(会員のこと)数の増加、組織維持のための法人会員獲得などに向けて事務処理は増加していた。 一方では、学者として脚光を浴びることで、専門の学会だけではなく、経済界からの講演依頼なども増加するという多忙な中でも、従来のままの情景が我が家では演じられていたのであった。跡継ぎの人材を育てるとか、事務的なことを他人に委ねるという考えなどは、全くと言っていいほど竹中の脳裏にはなかったのであろうか?

 このような多忙さを抱えた竹中は、ある朝突然に勤務する大学構内で倒れ、再び教壇に立つことなく、毎月繰り返された我が家での情景の主人公に戻ることなく、「独り舞台」からの退場を余儀なくされたのであった。先に述べた情景、我が家という私的空間で繰り返される月例行事から何とか逃避したい思いで、「このかび臭い世界が一番嫌い」と理科系学問の世界を求め巣立った竹中の愚娘である筆者が、倒れた父親と同居することになったのであった。この偶然の出来事が、平成の「社団法人心学明誠舎」を再生する出発点になったのは何とも皮肉な巡り合わせである 。

 戦争という大きなエポックが竹中靖一を心学の研究に向かわせて爾来、心学の啓発活動を約30年近く重ねていた。次に、筆者が父からのバトンをうけ、昭和60年(1985年)から代走することになったのである。父を介護するなかで出会った、法人の活動再会を渇望する幾人もの舎員の熱いエールに、父の知人や夫中尾正の助けをうけて、筆者はやむを得ず半身を向けた世界が『法人活動の再開』であった。思いもよらず、「心学明誠舎」を背負い続けて20年という因縁に、綿々と続くDNAの不思議を感じている。さらにこの20年の積み重ねが、人生の後半期を迎えた筆者に、「おとなが学ぶ」・「生涯学習」という研究テーマをあたえ、遅咲きの研究生活に向かわせる間接的、直接的きっかけにもなった。これも、父靖一、それに母芳子の遠い祖先から受け継いだDNA因子の因縁を感じている。

 近年「心学明誠舎」は事務局を発祥の地「船場」に戻し 、新体制で動き出した。旧来からの舎員、新任の理事それに活動に参加される市民に助けられ、これまで継続した家内作業から脱皮し始めている。筆者自身の社会的使命は、父も、母の祖先もなしえなかった社団法人としての公共性を認識しながら、この無形の歴史的文化遺産を、次代へ引き継ぐことと、心学や私塾の今日的役割を問いながら、私の所与の『心学DNA』をそこに移植していく作業であると思っている。若かき日に反発した父竹中靖一への供養でもあろうか、セピア色の私的空間への思い出に立ち戻りながら、あと少しこの「心学明誠舎」の活動にかかわることになりそうである。

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