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名は体を表す?
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〜洋の東西、似た名前・似た発想〜

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井上宏.
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 同じ名前の人などは世の中に随分居て、珍しいことではない。しかし、東洋と西洋で同名となると珍しいと思うが、中にはあって、アメリカの新大統領オバマ氏と小浜市が同じスペルということで、一躍脚光を浴びたのが記憶に新しい。
 もっとも、名が同じだといって、この場合、体(中身)はもちろん全然関係が無い。しかし、人ではないが、東洋と西洋で、偶然似た名前で中身も発想の似たものがあるので、二つばかり紹介し、心学の話に結びつけたい。後半部分では、前回寄稿に続く、鎌田柳泓の第2弾となる。

 まず一つ目は前座として、全く偶然の類似、「ジョハリの窓」と「ジョウハリの鏡」というのはどうだろうか。どちらもご存じの方も多いと思う。
 「ジョハリの窓」は1955年、ジョセフとハリー(L.Joseph & I.Harry )によって提案された「対人関係における気づきのグラフモデル」である。人間の心を、四つの窓を通して見る。「開いた窓」は自分でもよく知っており、他人にも知られている領域。「気づかない窓」は、周囲の人からは丸見えだが、本人が気づいていない領域。「隠した窓」は、自分は知っていて他人に隠している領域。「分からない窓」は、自分にも他人にも分からない無意識の領域である。四つの窓全部でその人の心全体が分かる。他者とのコミュニケーションを良くするには、「開いた窓」をできるだけ大きくするように努力すべきであるとする。
 「ジョウハリの鏡」は、「浄玻璃の鏡」と書く。仏教伝説だが、大辞林によると「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)とは、地獄の閻魔王庁にあって、亡者の生前の、全ての行いを残り無く映し出すという鏡」である。また、ウィキペディアの記述を引用すると、「これで映し出されるのは亡者自身の人生のみならず、その人生が他人にどんな影響を及ぼしたか、またその者のことを他人がどんな風に考えていたか、といったことまでがわかるともいう。一説によればこの鏡は亡者を罰するためではなく、亡者に自分の罪を見せることで反省を促すためのものともいわれている」。
 ジョハリとジョウハリの語呂だけでなく、窓や鏡を通して、そして他者の目を通して、その人の本当の姿を見るという点で発想が似ていると思いませんか?

 今一つは、「利己的な遺伝子」で有名な生物学者リチャード・ドーキンスの著作「虹の解体」( UNWEAVING THE RAINBOW ,1998 )と、懐徳堂の山片蟠桃「夢の代」(1820)である。
 「虹」と「夢」はイメージとして似ているが、それらの意味するものを「解体」し、「代わり」のものを提示しようとする点で両著は類似している。「代」とは、代わりであるが、「虹」や「夢」が暗示する神秘主義・迷信・宗教を解体した代わりに来るべきものは、彼らによれば、科学であり合理的思考である。

 「虹の解体」という書名の由来は、ニュートンが虹を物理学的に解体し、光のスペクトルとして説明してしまったことに対し、虹の詩的側面を損なったとして詩人キーツが非難したことによる。しかし、虹を解体することにより、科学は宇宙に対する新しい驚きへの扉を開き、本当の「詩性」の源となったのだと、ドーキンスは主張する(日本版訳者あとがき)。この本で彼は、ダーウィニストとして、脳の進化の謎に迫ろうとする。その過程で、占星術・超能力・超常現象など神秘主義・エセ科学などを批判し、その矛先は宗教にも及ぶ。そして宗教に対する批判は、2006年の著作「神は妄想である」で徹底的に展開されるのだが、この「虹の解体」も「反宗教」「無神論」の書であるといって良い。

 「夢の代」は山片蟠桃の経済や社会についての思想を縦横に述べた本であるとともに、天文・地理その他、彼の得た西洋科学の知識や、朱子学の合理主義にもとづいて、仏教や神道の前科学的宇宙観を批判した本でもある。書中で蟠桃は「無鬼論」を展開して死後の霊魂の存在を否定し、また、神道や仏教のもたらす害悪を非難している。この書もまた、「反宗教」「無神論」の書であるといって良い。
 この書の原題は「宰我の償」であったのを、中井履軒の勧告により「夢の代」に改めたとのことである。宰我というのは、昼寝をして孔子に叱られたという「論語」に出てくる人物である。夏、昼寝をする代わりに、この本を書いたという意味で、「宰我の償」と題した(中央公論社「山片蟠桃・海保青陵」)。原題に即して解釈すると、昼寝の夢を見る代わりに書いたものということになる。しかし、夢というのは隠喩であって、凡人の夢見る非合理な考えを指し、蟠桃は夢見る代わりに合理主義に目覚めよと呼びかけているのだと私は思う。

 時代も国も異なる二書のタイトル・テーマの類似性を挙げた。人間、場所を越え時代を越え、同じような考えを持つものは多い。ほとんどが埋もれてしまうのだが、書籍になっているものも少なくない。人名と異なり、書籍のタイトルは元来内容に沿って付けられるものだから、内容もタイトルも似ているものがあって当然と言われればそれまでだ。しかし、二書のように比喩的なタイトルを付けながら、比喩の仕方が似ていることに興味をそそられた次第だ。

 ところで、数ある中で、これら無神論の二書を挙げたのには理由がある。我が鎌田柳泓の「心学奥の桟」を、これら二書と比較したかったからである。
 前掲書の著者二人同様、鎌田柳泓も無神論者と断定して間違いないと思う。石門心学は朱子学に基づいているが、そもそも朱子学は無神論であるといって良い(もちろん、そうではないという説もあるが)。柳泓の著書「心学奥の桟」は、超自然的と考えられる現象について、経験的・合理的に解説している。その中で彼は、死後の霊魂を否定し、神は名があるのみで、実体はないと説く。にもかかわらず、彼は神仏を祈る心を尊重することを説くのである。評論家山本七平は「日本教について」で、柳泓の説を、まことに非論理的ではあるが、日本人の心情を良く表しているという。私は後者(心情云々)については賛成だが、前者(非論理的云々)については異論がある(テーマとずれるので詳述しない)。

 私がここで言いたいのは、「心学奥の桟」という書名が、柳泓の意図を良く表すとともに、石門心学の性格を表しているということである。
 「桟」は、俗信・迷信・欲心に惑わされ、信心に頼る此岸の人を、心学の奥義(彼岸)へ導く「懸け橋」である。橋であるから此岸と彼岸は断ち切られた訳ではない。行き来できるのである。柳泓は俗信・迷信からは人を解き放そうとする。しかし、神仏については、その実在は否定するが、弱い存在である人間が神仏を求め、万物に神仏が宿ると考えることも宇宙の「理」であるとする。その理がある限り、空名の神といえども敬すべきであるという。
そこがドーキンスや蟠桃との違いである。彼等は夢や虹を解体し代わりを提示する。此岸から彼岸へは一方通行である。祖先に対する祭祀や儀礼は伝統として尊重するが、宗教に対しては、その欺瞞性と害毒への糾弾を容赦しない。彼等はあくまで合理主義者である。しかし、柳泓には、というより石門心学には、合理的な考えを説きながら、なお、人間の弱さに基づく不合理も、宇宙の「理」の掌中にあるとする思考の広さが感じられる。

 以上、今回は、名前の類似から出発して心学の性格に行き着いたが、前回寄稿に続く鎌田柳泓の第2弾という形になった。又の機会には、第3弾として、山本七平が非論理的と断じた柳泓の「鬼神論」について、また、それが現代に持つ意味について私見を述べてみたい。

以上
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