朝日新聞夕刊の「大峯伸之のまちダネ」欄に、2月13日から2月24日、2週10回連載で、心学明誠舎が取り上げられました。朝日新聞社の承諾を得て本ホームページに転載します。承諾番号はA16-2749です。
このページは第2週分です。ご覧ください。
.朝日新聞(大峯伸之のまちダネ)船場と文化10
「心学明誠舎」

大峯伸之
写真・図版
竹中靖一さん(中尾敦子さん提供)

2月20日掲載
 ■舎屋焼失 10年後に復活
1945(昭和20)年、江戸時代思想家・石田梅岩(ばいがん)の教え「石門心学(せきもんしんがく)」を広めてきた私塾「心学明誠舎(めいせいしゃ)」の舎屋は大阪大空襲焼失した。

 休止していた活動が再開したのは、焼失から10年後。理事長に住友本社の常務理事が就き、住友系の企業が法人会員になった。事務局は、経済学者で近畿大教授だった故・竹中靖一の自宅(大阪市内)に置かれた。
竹中は大阪・船場の浄瑠璃本版元の家に生まれ、京都帝国大(現・京都大)で英国経済史を専攻した。妻の芳子(故人)の曽祖父は医者の山田俊卿(しゅんきょう)。明治維新後、心学明誠舎を再興させた一人だった。

竹中は山田から心学明誠舎所蔵の書籍、梅岩の肖像などの史料を引き継ぎ、55年に開かれた第1回例会では「経済道徳の確立」をテーマに講義をした。

 なぜ、研究対象が英国経済史から心学に変わったのか。竹中の次女・中尾敦子さん(74)は「戦争で西洋経済史の研究が難しくなったという事情もあったのでは」とみる。竹中は64年、著書「石門心学の経済思想」で日本学士院賞を受賞。84年に病に倒れるまで、300回近くの例会の開催にたずさわった。

 竹中は山田から心学明誠舎所蔵の書籍、梅岩の肖像などの史料を引き継ぎ、55年に開かれた第1回例会では「経済道徳の確立」をテーマに講義をした。

 なぜ、研究対象が英国経済史から心学に変わったのか。竹中の次女・中尾敦子さん(74)は「戦争で西洋経済史の研究が難しくなったという事情もあったのでは」とみる。竹中は64年、著書「石門心学の経済思想」で日本学士院賞を受賞。84年に病に倒れるまで、300回近くの例会の開催にたずさわった。

写真・図版
心学明誠舎の例会で参加者を前に語る竹中靖一(右端)=1979年

2月21日掲載
■家族ぐるみ 手作りの講義

 1979年12月3日付の朝日新聞(大阪本社版)に、こんな記事が載っている。「今も続く心学(しんがく)の塾 大阪商人の心意気」「道義と倹約説く」。江戸時代の思想家・石田梅岩(ばいがん)の教え「石門(せきもん)心学」を広めている大阪の私塾「心学明誠舎(めいせいしゃ)」の例会の様子を伝えていた。

 記事では、「毎回、二十人前後が集まり、世話役をしている竹中靖一・近畿大教授の講義を聞く」とある。「心学は、まっとうな大阪商人の中に生きている」という企業経営者の声も紹介されていた。

 心学明誠舎の事務局があったのは、大阪市内の竹中の自宅。「例会の準備は家内工業的でした」と言うのは次女・中尾敦子さん(74)だ。案内のはがきや例会資料は竹中の妻・芳子(故人)と5人の子どもが手がけ、例会当日は竹中夫婦も出かけて留守だった。だから、夕食は子どもだけ。中尾さんは「心学なんて、憎らしいだけだと思っていました」と苦笑する。

 中尾さんは84年に病に倒れた竹中、芳子と同居し、竹中の介護を始めた。だが、竹中は2年後に死去。中尾さんは心学明誠舎の「活動の休止」をやむなく決めた。

写真・図版
別所俊顕さん=大阪市中央区

2月22日掲載
■存続危機 立ち上がった宮司

 江戸時代の思想家・石田梅岩(ばいがん)の教え「石門心学(せきもんしんがく)」を広めてきた大阪の私塾「心学明誠舎(めいせいしゃ)」。その活動を担ってきた経済学者・竹中靖一の死により、存続の危機と向き合うことになる。

 理事長のなり手がおらず、法人会員の脱退で財政も厳しくなっていった。そんな中、活動の休止を決めた次女・中尾敦子さん(74)のところに訪問客が相次ぎ、存続を求めた。竹中の教えを受けた人たちだった。

 「どうしようか」。中尾さんが大阪・船場の集英小学校(現・開平小)の同窓会で胸の内をもらすと、ある男性が言った。「歴史や伝統は、捨てれば二度と戻らない」。「薬の神様」で知られる少彦名(すくなひこな)神社の宮司だった別所俊顕さん(74)だった。

 別所さんはそれから20年近くにわたって心学明誠舎の理事長を務め、中尾さんの母校・大阪府立大手前高校の同級生も2003年に支援を引き受けた。船場の商社「辰野」の副社長・辰野幸正さん(故人)だ。

 辰野さんは心学明誠舎の事務局を社内に置き、所蔵史料を保管した。中尾さんは言う。「私塾は昔から『船場の旦那』と呼ばれる人たちに守られてきたんですね」

写真・図版
石田梅岩が軒端に出した「行灯」。男女を問わず聴講できた=心学明誠舎蔵

2月23日掲載
■正直・勤勉・倹約 留学生にも

 「経営者に広めるために始めたのが、『石門心学(せきもんしんがく)講演会』なんです」。江戸時代の思想家・石田梅岩(ばいがん)の教えを伝える大阪の私塾「心学明誠舎(めいせいしゃ)」の理事・下野護さん(74)=元ドコモ関西常務=は言う。

 心学明誠舎を支えた船場の商社「辰野」の副社長・辰野幸正さんが2006年に亡くなり、大阪府立大手前高校の同級生だった下野さんが事務局長を引き受けた。「若い人に心学を知ってほしい」との思いで、下野さんはセミナーや講演会など一般の人向けの催しを増やした。

 事務局が置かれたのは、留学生の就職や進学を支援する「エール学園」(大阪市浪速区)。理事長の長谷川恵一さん(69)はある経済団体で辰野さんと知り合い、心学明誠舎とかかわるようになった。「梅岩が説いた『正直、勤勉、倹約』は私の経営の基準となりました。辰野さんには感謝しています」

 梅岩の教えの根底には、儒教がある。「儒教文化圏の若者は梅岩の教えを理解できるのではないでしょうか」と考える長谷川さん。エール学園で学んでいるベトナムや中国、韓国など数多くのアジアの若者に、梅岩の思想を伝えたいと思っている。

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森田健司さん=大阪府吹田市

2月24日掲載
■心の学び 生涯かけて

 江戸時代の思想家・石田梅岩(ばいがん)の死後、「石門心学(せきもんしんがく)」の教えは弟子たちによって広まった。京都、大坂、江戸をはじめ、各地に約180もの「心学講舎」が開設されたという。その一つが大阪の「心学明誠舎(めいせいしゃ)」だった。

 堀井良殷(よしたね)さん(80)は理事長に就いた2003年ごろを振り返り、「その当時に活動していた講舎は全国で明誠舎くらいでした」と語る。その背景について、大阪学院大准教授の森田健司さん(42)は「梅岩は商人に指針を与えました。船場の商人が耳を傾けたのは自然なことです」とみる。

 現代社会は成熟した一方で、「貧困」や「格差」の問題とも向き合う。「これでいいのだろうかと思う人たちは精神的な支柱を求めています。梅岩への関心はむしろ高まっていると思います」と森田さんは言う。

 心学明誠舎を守ってきた中尾敦子さん(74)は別の視点で梅岩を見つめる。江戸時代、身分や年齢、男女の別なく学べたのが心学だった。「生涯学習の場としての可能性が心学明誠舎にあるのではないでしょうか」(大峯伸之)

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