澪標 ―みおつくし―

紫式部は男か

清水 正博
大和商業研究所代表心学明誠舎専務理事
2016年12月30日

 石田梅岩は、1729(享保14)年に京都に儒書などを教える講舎を開いた。その際に表に出した「老若男女共に望みあらば無縁の方々も聞かれるべし」との書付を見たある学者が「儒書が女の耳に入るものか、めずらしき書付けなり」とけなした。それを聞いた梅岩は「いにしえの紫式部、清少納言、赤染衛門などを、その学者は男と思われているのだろう」と反論したという。

 江戸時代、儒学を学ぶのはもっぱら男に限られており、女は嫁ぐために役立つ習い事が中心であった。梅岩は男女の間にすだれをかけ、同じ四書五経を中心に講義をした。この話からわかる通り、梅岩は女性の潜在能力を高く評価する極めて開明的な教育者であり、現代で言うダイバーシティ(性別、年齢、宗教、人種など多様性を受け入れ公平に扱う)の理解者であった。

 封建時代にまれな平等感の持ち主であり、弟子の中から、女性指導者の慈音尼が現れた。同女は近江国吉田村(現草津市)に生まれ、幼少より信心深く各地で仏道の修行に励むも、病を得て京都・六角堂前で養生する。すぐ近くの堺町通六角下がる所に、梅岩が講席を開いており入門する。近くに住む門弟、木村重光宅に居を移し、梅岩師宅に通い詰め、ついに自性を会得する。再び病身になるも、師が身まかり「先生の徳を感じ、人に人たる道を伝えたい」と関東へ下り、約10年にわたり江戸に滞在し、師さながらに講舎を開き、男女の門人を数多く育てた。

 梅岩の高弟、手島堵庵が中澤道二を江戸に派遣して参前舎を開くことに先立つ35年も前であり、慈音尼は石門心学が関西を離れた飛び地でも受け入れられるというパイオニア役を担った。後年は故郷に帰り静養方々余生を送りつつ、師の志を継ぐ『道得問答』を発刊する。梅岩の開悟の境地を伝える著として、広く語り伝えたい内容だ。

 また道二の門弟に御家人、浅井喜太郎の妻、“浅井きを”がいて、大奥にも心学が広がる貢献をなした。このように、心学には女性を引き付ける何ものかがあり、夫婦での入門者も数多い。

 今日まで石田梅岩が育てた慈音尼、堵庵ら、幾多の弟子たちが石門心学を連綿とつないできた。江戸期180数舎の学び舎の痕跡は今も全国各地に遺されており、大阪の明誠舎、京都の修正舎は現存し学び続けている。

 2019年には梅岩開講290年を迎える。ゆかりの地にて、記念行事を行いたいと、全国同友の士らと語らっているところだ。梅岩の願った「老若男女、全ての人が天地と一体になった境地で、世界中の人々が安寧に暮らせる社会となる」ことを祈り、なお一層、私に与えられた天命を果たして参りたい。

 (しみず・まさひろ、奈良県生駒郡)