石田梅岩の第一の高弟、手島堵庵(てしま・とあん、別名は近江屋源右衛門、1718〜1786)は「私は少年の頃から、隠居した後には、人に人たる道を説きたいという志を有していたので、そのときになって人から私の行動を非難されないように、心がけてきたことがある。決めごとが多いと実行しにくいと思い、この三つを戒めにしてきた」と述べている。
堵庵は京都の商家に生まれ、17歳で梅岩門下に入り、才が際立っていたために梅岩から孟子になぞらえられている。
43歳まで家業にいそしんだ後、家督を長男に譲り「私は教えをなす身分ではないが先輩方はすでに没せられ、やむを得ず学びながら講釈を行う。それはあくまで梅岩先生の教えの取次ぎである」と語り、門弟を友と呼び、隠居であるからと謝礼は一切受け取らなかった。
堵庵の第一等の功績は、梅岩の教えを「石門心学」と名付け、京都、大坂、江戸などに講舎を次々に設け、その質を維持発展させる諸制度を制定したことにある。
堵庵は、心学明誠舎の名づけ親であり、大坂にもたびたび下って講釈を行っている。堵庵の各地での講話は活況を呈し、聴衆は梅岩時代には数十人程度が普通であったが、堵庵においては数百人単位に及ぶことも少なくなかった。
堵庵の講義の受講者は成人のみでなく、子どもに向けても『前訓』(ぜんくん、男子7〜15歳、女子7〜12歳への講話)、『児女ねむりさまし(いろは歌)』などで、わかりやすい説話を試みた。今も残されている前訓テキストは、子どもの行動規範とその理由を述べている。一部を紹介しよう。
一 朝、目が覚めたら、手洗いの後、まず神棚を拝みます。次にお仏壇に向かい、拝みます。先の三戒やこの前訓に述べていることは、現代では行き過ぎた利己主義のためか、見聞きする機会もまれである。
梅岩や堵庵は「ありべかかり」(当たり前のこと)を重んじた。私はこの意味をあるべき言動と理解している。言い換えれば「志」と同義語ではないだろうか。社会が、組織が、個人が、どんな志をもっているか。もう一度、わが志を問い直してみたい。
堵庵も先の「三戒」のあとに、「諸君、大志を立てらるべし」と語っている。
(しみず・まさひろ、奈良県生駒郡)
1 | 東京圏から大阪に 「都市間移住」モデル構築へ |
2 | 健康モデル都市大阪に 大阪市立大の荒川学長 |
3 | 地域と歩んだ80年 近鉄百貨店上本町店 |
4 | 「ビエラ桃谷」誕生 JR環状線改造プロジェクト |
5 | 落語家の手作り屋台盛況 天王寺で彦八まつり |