1785年に大坂南船場に心学講舎である明誠舎が創設されて230年余りたつ。石門心学は石田梅岩を祖とする教えであり、公式の舎は江戸期に全国180以上があった。
明誠舎は大坂商人の健全な発展に寄与し、今日まで連綿と学び続けてきた。心学の代表的指導者、中澤道二が寛政年間、大坂で講話した際、聴講は毎日千数百人にのぼり、舎の繁栄ぶりが目に浮かぶ。講話録『道二翁道話』が直ちに出版され、「岩波文庫」でも版を重ねた。
道話とは梅岩の教学を分かりやすく伝えるもので、四書などの古典を引用しながら、人々の日常のいさかいや悩み事を取り上げ、笑いや涙を誘いつつ、聞く人を道義の道に歩ましめた。幕府・藩の心学推奨の時期もあり、武士も含めた四民が石門心学の教えに親しむ機会に恵まれた。
道話の一例を挙げよう。犬猿の仲の嫁・姑(しゅうとめ)がいた。子どもがあり離縁もままならぬ。嫁はついに我慢の限界に達し、懇意の医者に姑を殺す毒薬を依頼する。医者は急死して怪しまれないよう、30日分の薬を渡し毎日の食事に少しずつ混ぜ、その間は姑に孝養を尽くすよう指示する。
嫁はひと月ならお安いことと、姑の好きな菓子を買い、夜になるとさかなを用意し酒を勧める。食事が終わると肩をもみ足をさする。姑はいつものようにいびろうとするが、嫁ははいはいと殊勝な受け答え。朝は早起きをして掃除し朝飯を用意する。
初めは気味悪がっていた姑も、嫁のかゆいところに手が届く孝養に毒舌も影を潜め、鬼嫁と思っていたがどこも悪いところは無い、どうしてこの嫁を憎んでいたのかと心変わりしてくる。かわいい息子の大事な嫁、死に水をとってくれるのはこの人以外にないと、嫁の体をいたわる、大事にためていた衣服をあげる、田畑もあげるなど本心から優しい言葉をかける。
戸惑ったのは嫁。30日の辛抱と孝養のふりをしていたが、鬼婆ではなく世間にもまれな仏婆様だったとは知らなかった。罰が当たるところだったと、医者へ走り毒を消す薬をと依頼する。医者は嫁の目が覚めたことを確認の後、飲ませたのは毒ではなかったと打ち明ける。良き医者がいたものだ。この類は皆銘々いくらでも心に持っていることと戒めて、道二は道話を終えている。
話の中で使われた道歌「雲はれて後の光と思うなよ もとより空に有明の月」は私も拳拳服膺(ふくよう)している。
娯楽の少ない江戸時代。庶民にはこのような道話が心に染み入ったことであろう。日本人の持つ正直、質素、倹約といった徳目が心学により磨かれ、明治期に入り国民皆教育により勤勉な国民性に拍車がかかり、世界にもまれな繁栄国家となった。
経済も徳性も停滞感が漂う現在、もう一度、心学により心身を磨いてはどうだろうか。
(奈良県生駒郡)
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