.山田俊卿と神戸貧民病院 |
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. 飯塚修三. . |
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1.はじめに 私の姫路の実家は江戸後期の天保時代に孝徳舎という名の家塾(寺子屋)を営んでいた。そして和算書、心学書など数十冊の古文書が残されている。そして、調べてゆくうちに孝徳舎は石川謙「石門心学史の研究」に掲載されている心学塾であることが判明した。この孝徳舎の建物は現存していて、恐らく日本で現存する心学舎の一つではなかろうか。 私が心学明誠舎を知ったのは二〇〇七年三月四日に催された「関西歴史散歩の会」で「江戸時代大坂学問散歩」と題したツワーを私が企画、引率したからである。その時中央区船場に明誠舎跡の石碑があることを知りルートに加えた。
一八三一年(天保二)七月二十五日、山田俊卿は大分県海部郡 一八四二年(天保十三)、俊卿十二歳の時、利通は宮野浦の医師、三江元節に入門させた。その後、元節が城下町・佐伯に移転したのでそれに伴った。一八四九年(嘉永二)、領内に天然痘が大流行したが、俊卿は元節を助け種痘を広く領内に実施した。これが佐伯藩における最初の種痘であった。 一八五七年(安政四)、二十七歳の俊卿ははじめて大坂に遊学する機会を得た。大坂では緒方郁蔵、斉藤永策、各務相二について研鑽に励んだ。しかし、翌年、恩師元節が危篤の報に接し帰国した。元節死去後、師家の借財を償還し、遺児が成長して相続するまで、俊卿は五年間佐伯城下で開業して、師の家族のために力を尽くした。 一八六六年(慶応二)七月、俊クは佐伯藩の御扶持医を命じられ、はじめて士籍に列した。しかし、勉学の念が強く、九月には長崎に出て、マンスヘルトについて、もっぱら内科学を勉強した。 一八七〇年(明治三)三月一日、大阪医学校が開校した。ボードウィンが生徒を募集していることを聞き、俊クは妻子を故郷に残して来阪した。この時俊クは三十九歳、すでに医学の素養が深く、小当直委員に任ぜられ同院に勤務することになった。 同年九月、俊クは大学東校(東京大学前身)から招聘を受けて上京し、十月に訳書編纂御用掛を命ぜられた。さらに十一月に大学大得業生に任ぜられて神戸病院に出張した。ところが間もなく篠原直路・神戸病院長が病没したので、俊クは院長代理となった。 一八七一年(明治四)八月、文部省十一等出仕を命じられ、文部省権中助教に任ぜられた。一八七二(明治五)年四月、神戸病院は文部省直轄より兵庫県に移管され、俊クは兵庫県病院出仕となった。 これより先、俊クは貧窮の病人を救済しようと志し、同年、神戸に貧民病院を設立した。この時、米人宣教医、J.C.ベリーに相談した。ベリーは俊クの志に賛同し、資金の提供を申し出た。貧民病院は患者の評判も良く、神戸病院をしのぐほどであった。しかし、一八七三年(明治六)、貧民病院は廃止されることになり、医療器具はすべて神戸病院に委譲された。 一八七四年(明治七)二月、失意の俊クは軍籍に身を投じ、陸軍医補となり、九月には陸軍軍医副に任ぜられた。この年、征台の役が勃発し、西郷従道の随行を命じられ渡航した。翌年五月、従五位に叙せられて、台湾従軍記章が下賜された。 一八七七年(明治十)、西南の役では俊クは軍医として各地を転戦し、谷干城、乃木稀典のもとでも働いている。十月、鹿児島より大阪にもどり、大阪臨時病院の軍医部の残務を整理し、翌月東京に帰還した。 一八七九年(明治十二)四月、大阪鎮台病院に勤務した。 同年、大津、高野山、姫路に、翌年には兵庫県川辺郡、島根県気多郡に出張して多忙を極めた。一八八六年(明治十九)九月、大阪鎮台病院医官の職を最後として定年退職した。 退職後は次に述べる様々な社会事業に貢献して、一九二一年(大正十)五月八日、俊クは九十一歳の天寿をまっとうした。 《盲唖学校》 一八九九年(明治三十九)一月、俊クは進藤重知とともに大阪府に盲唖学校の設立を出願して許可された。生徒を募集し、教師を招聘してまさに開校するばかりとなった。その時、五代五平も盲唖学校の計画を立てていた。それは俊クのものより大規模で用意も周到であった。俊クはこれを聞き、自分の計画を捨て、備品、資金をことごとく五代に提供し、その事業を譲った。五代はおおいに喜び、ここに盲唖学校が設立された。これが後の、大阪市立盲唖学校となる。 《桃花塾》 一九一五年(大正四)岩佐正一が発達障害児の保護と教育のための施設・桃花塾を開くことを計画した。俊クは率先してその主旨に賛同した。十月、俊ク宅にて桃花塾賛助会の発起人会を開いた。俊クは会計監督として、塾の財政を確立するのに尽力した。九〇歳を超えていたが、みずから資金調達に奔走して、篤志家を説得し、市長や知事を訪問してその事業の成功に意を注いだ。 《博済病院》 俊クが神戸に設立した貧民病院は不幸にして一年ほどで閉鎖のやむなきを得た。その後、彼は軍籍に身を置いたが、社会奉仕の熱情は益々強くなった。一八八〇年(明治十三)、緒方惟準らと共に、貧民救済を目的とした博済病院を設立した。 場所は大阪市西区阿弥陀池の畔にあった紫雲閣を買収した跡地である。この病院は米国人・テーラの援助などを得て、盛大に成っていった。しかし、一九八七年(明治二十)には解散せざる運命になった。 《大阪慈恵病院》 俊クはこれに屈することなく、同志と共に大阪慈恵病院を設立した。最初は大阪市東区唐物町の円光寺境内に仮設し、その後は東区粉川町に移転した。これが後の弘済会所属救療部である。 一九二七年(大正二)、大阪市が貧民救済のため弘済会病院を建てることになった。そこで慈恵病院は協議の結果、弘済会病院に吸収合併することになった。この時慈恵病院の外来患者数は一日三〇〇人、一ヶ月一万人以上であった。また預金も二万円もあり、これは俊クの苦心の経営の賜物であった。 弘済病院になっても俊クは評議員として大いに貢献し続けた。 3.おわりに 写真は山田俊クの子孫である中尾敦子・心学明誠舎副理事長より提供頂きました。深謝いたします。 (文中敬称略) 参考文献 1.竹中靖一「山田俊ク伝」心学明誠舎、非売品 2.心学明誠舎「明誠舎沿革略」心学明誠舎、非売品、一九七五年、 3.竹中靖一「石門心学の経済思想」ミネルヴァ書房、 一九六二年 4.川端直正「明治時代における大阪慈恵病院の沿革」大阪市史紀要、二三、一九六九年 |
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