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巨大技術への危惧と石門心学「倹約」の今日的意義
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〜東日本大震災に伴う原発事故に思う〜

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井上宏.
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 今回の東日本大震災による原発事故を機に、あるアピールがなされた。元 ユネスコ(国連教育科学文化機関)事務局長特別参与 服部英二氏が中心となり発したものだ。私の友人竹尾氏が、日本ユネスコ協会連盟の元事務局長をしていた関係で、送ってくれた。今回の事故を教訓に、世界が脱原発に舵を切り替えるべし、そのため、国際倫理サミットを開くべしというものだ。(詳細→
 竹尾氏は私に、それを読んだ上で意見を寄せるようにと注文した。そこで私は、以前から感じていた巨大技術に対する危惧と、それに対し、我々はどういう態度を取ればよいかをを、おこがましくも書くことにした。

 今までの技術開発とは比較にならないくらい、人類に対し巨大な影響とリスクを伴う技術は現在幾つかあるが、私がまず危惧するのは原子力開発と遺伝子組み換えだ。少し小型だが超高層ビルなどもリスク一杯と言える。
 人類の歴史を変えた技術は過去幾つもあった。まず火の使用から始まって、印刷機、電気、自動車、飛行機、インターネットに至るまで、数え切れない技術が人類の歴史を変えてきた。それらの技術は、それに伴うリスクや不利益も多くあったが、それを上回る利益をもたらして来たように見える。しかし、化石燃料の利用技術については、人類に繁栄をもたらすと共に、環境に深刻な悪影響を及ぼすに至った。それを解決するエースとして登場したのが原子力発電である。人類にとって原子力利用は、まず原子爆弾という負の利用から始まり、その危険性は広く知られていたので、発電という平和的利用に当たっても、危険性の除去に力が注がれた。何度かの事故を経て、安全対策に目処が立ったとして、原子力発電所の建設は、今や先進諸国から発展途上国へと燎原の火のごとく広がろうとしていた。そのままで行けば、原子力発電所が地球の表面を覆う勢いだった。
 その矢先の、今回の事故である。原子力発電所の安全神話は、もろくも崩れ去った。3月11日の発生以来、1ヶ月以上経ち、工程表は示されたものの、一進一退、予断を許さない危機的状況が続いている。世界中の目がフクシマに注いでいる。フクシマの1基でも最悪の事態を招けば6基全体に及び、日本どころか世界中に影響が及ぶ。しかも、現世代だけでなく子孫にまで、及ぶことは必至だ。

 原発関係者は安全神話を作ってきた。しかし、技術には絶対というものはない。設計時に想定した条件の下では安全というに過ぎない。それも設計通りに施工する場合であって、手抜き工事があれば、設計上の安全性も当然保てない。福島原発は米GE設計による日本最初の原発で、設計時想定された地震の規模も津波の高さも今や定かではない。しかも欠陥工事が囁かれてきた、誠に危険なものだった。そんなものが平然と運転され、東京都民の電力を供給していた。では、新しい原発なら安全だったのだろうか。今回の津波は日本で運転している原発の安全基準を遙かに越えるものだったから、どこでも今回のような危機に陥った筈だ。

 では、この事態に直面して、世界の原発に対する態度は変わったのか?ドイツ・イタリアは慎重になった。しかし、フランス・中国は推進の態度を変えていない。アメリカはオバマ政権は慎重になったようだが、この政権は長続きしないかも知れない。共和党は、また、産業界はどういう態度なのだろうか。

 肝心なのは市民の態度だ。これを知る上で興味深いテレビ番組が4月16日、NHKで放映された。「マイケル・サンデル究極の選択 大震災特別講義」だ。日・中・米3国の学生をテレビ画面で結び、大震災関連のいくつかの設問に対し、「君はどう考える?君ならどうする?」と問いかけるものだ。その設問の一つとして、「原発を今後も推進すべきか」があった。それに対する答は、日・中と米では際だった違いを見せた。日・中では脱原発派と推進派が拮抗したが、米では脱原発派は一人としていなかった。脱原発のためには人間の欲望を抑制しなければならない。生活の質を下げねばならないという点に関して、日・中共抑制に肯定的な意見が多かったが、米の学生は否定的だった。米の学生の顔ぶれを見ると、様々な人種がいるようだったから、これは米国の文化がもたらしたものだろう。

 東洋思想では、人間は自然に生かされている存在であり、また、他の生物も人間と等価値の存在である。自然や他の生物との共生の思想が根底にある。また、個の欲望の充足よりも他との調和が優先される。それに対し、欧米をはじめとした一神教の世界では、神の姿に似せて創られた人間は、神以外の全てのものに優越している。自然や他の生物は人間のために利用すべき存在である。欧米人は、人間の欲望を満たすために、科学技術で自然をねじ伏せ、徹底的に利用しようとしているように見える。

 現代の日・中は欧米の技術を使って、経済発展に邁進してきた。表面的には東洋思想は最早忘れ去られたように見えていた。しかし、今回のような極限的な状況に直面して、若者たちの心の底にも、依然として、それが流れていることを、今回のテレビ討論が明らかにしたように思えて、救われた気がした。
 一方、この危機に際しても、なお欲望の達成をまず第一に考え、そのため原発の推進を不可欠と考える米国学生の態度に危機感を覚えた。

 原発の安全性については、災害時の危険のみでなく、放射性廃棄物やこれから続々寿命を迎える核施設の処分についても考えなければならない。それについての有効な対策がないまま、建設計画のみが拡大しているのは、まさしく米国学生のような態度からであろう。彼らが米国のエリートであり、米国を、ひいては世界をリードしていく立場であることを考えると悲観的になる。

 原発を直ちに廃止することは確かに非現実的であろう。しかし、長期的な安全性を考えるなら、人類の未来のためには、これ以上の原発の拡散を阻止し、脱原発、自然エネルギー開発の道を進まねばならないと私は考える。その一方で、際限のない欲望の抑制をしなければならない。アメリカ的消費生活が原発や遺伝子組み換えを推進してきた主要な原因だ。資源を食い散らすアメリカ的消費生活を変えねばならない。そしてこれは、まさしく倫理の問題である。世界が消費生活に関して、一つの倫理を共有することが可能だろうか。

 この点に関して、ある問題に対する米国人学生の意見に、可能性を見いだすことができる。この講義で、震災で示された日本人の自制心ある行動について、西欧の個人主義と東洋の共同体主義という観点から議論があった。中国人学生から、我々東洋人は日本人の共同体主義的行動について理解できる点が多かったという意見があった。一方米国人学生が、個人主義を是としながらも、日本人の行動に、人間の可能性を見て感動したと発言したことが印象的だった。東は東、西は西と言いながら、やはり、その底には共通の倫理的感情が流れている。世界共通倫理の可能性がほの見える。

 消費生活に関し、まさに世界共通の倫理を提唱した人がいる。ケニア出身の環境保護活動家、ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんである。日本語の「もったいない」という言葉に感動し、「MOTTAINAI」運動を起こしたことで有名だ。全世界が「もったいない」という心で物を消費すれば、無駄な消費が無くなり、環境保護につながるとする。
 「もったいない」。漢字で「勿体ない」。この言葉は、もともと仏教の「物体」を否定した言葉で、「物本来のあるべき姿でない」ことを言う。「物の価値が十分に活かしきれておらず、無駄になっている」ことを指す。

 ここで石門心学を勉強している人はピンと来るはずだ。石門心学で言う「倹約」こそ、「物の価値を活かす」ことだと。「倹約」はケチでも耐乏生活でもない。その物の持っている「性」を十分に活かして使う。「物の効用を尽くすこと」である。そうすれば世間に三つ要るはずだったものが、二つで済む。それだけ世間が豊かになるという考えだ。「もったいない」という否定形の言葉を肯定形で述べた言葉が「倹約」である。全世界がこの精神で生活すれば、もっと少ないエネルギーで、心豊かな生活を送れるはずだ。それが脱原発・脱遺伝子組み換えにつながるはずだと私は思う。

 重ねて言う。原子力発電や遺伝子組み換えのような、安全性の充分担保されていない技術を、目先の利益のために性急に採用することは止めよう。原発について言えば、新規の原発建設は中止、稼働中の原発については安全性を向上しつつ、廃炉計画を立てる。代替自然エネルギーの開発を促進する。等々の施策を世界規模で打ち立てると共に、我々の生活を資源浪費型から資源節約型へ変えなければならない。石門心学の「倹約」の心を全世界の人に持って欲しいと思う。

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( 2011.04.27 )

(訂正):
本文冒頭 服部英二さんの肩書きを修正しました。修正前は日本ユネスコ協会の元特別顧問と表示していましたが、修正文のように、ユネスコ(パリ本部)の事務局長特別参与が正しい肩書きです。誤表記をお詫びいたします。
( 2011.05.05 )

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